微かな希望2007年06月06日 23:09


今日の昼過ぎ、私の若き舎弟の一人が唐突に仕事場を訪ねてきてくれて、報告したいことがあると言ってきた。どうやら、当面の懸案事項に片がついたらしく、これからしばらくの間、時間に余裕ができそうだとのことだった。

それならばと、2,3の頼み事を彼にお願いし、承諾を取り付けた。
そのうえで、若くて時間に余裕のあるときにしか出来ないことを見つけ、実行してみてはどうかと、話を向けてみた。まあ具体的には、できれば1か月、少なくとも2週間くらい、海外に出かけて新鮮な体験をしてみてはどうかと言ってみたわけである。
だが、この20代の若者の口からは、私には全く信じられないような返事が飛び出してきた。

「国内でいいですから、80才になる爺ちゃん、婆ちゃんをどこかに連れて行ってあげたい。」

はあ? 何を言ってるんだ、このバカモノ、いやワカモノは!
私はこの若き舎弟の言葉に呆れ、あまりに本気であることにさらに呆れ、「そんな死にかけた年寄りにカネと時間をかけるのはムダ。未来のある自分自身に投資しなくてどうする。往復9,800円の韓国行き航空券を紹介するから、カノジョ(これから緊急につくれ!)を連れて楽しんで来なさい。」と、極めて「適切」なアドバイスについて熱く語った。
しかし、この馬鹿者、いや若者は、パスポートの期限が切れているとか、もうグアムに行ったことがあるとか、ワケの分からないことを言って年寄りが参加可能な国内ツアーにこだわり、私を呆然とさせてくれた。

だが夕刻になって、居酒屋で一人で飲んでいるうちに、この馬鹿者、いや若者の言葉が、だんだん心に染みてきた。
自分自身のかけがえのない時間とカネよりも、死にかけた老人(いや彼によればピンピンしているそうです)のことが気にかかるという、この天然記念物のような、あるいは生ける化石のような善良さは一体何なのだろう・・・。

女房の話によれば、数年前から私は、全てに絶望しているようだったと言う。
確かに、私は「○○の問題は、○○の方法によって解決が可能であり、政府は○○をすべきである」といった評論の全てが信用できないでいる。そもそも「全ての問題は必ず解決されなければならず、また、それは可能である」という思想自体に疑問を抱いている。その思想自体が人々を苦しめ、不幸に追いやっているのではないかと。

その疑問は「絶望」に限りなく近いものがある。解決すること自体に疑問を抱いてしまうと、全てがどうでもよくなって、投げやりになってしまう。その手前で踏みとどまるのがすごく難しい。
しかし、今の職場で若い舎弟たちと接するうちに、何となく微かな「希望」というものを感じることが時々ある。私くらいの年代はダメな人間ばかりでも(すいません、1960年代生まれの人たち)、これからの若者には希望が持てるのかも知れないと・・・。つまりは、解決されるべき以前の善良な人たちが、この世には案外たくさんいるのではないかと・・・。

今日来たその若き舎弟に関しては、その冴えない服装を改めろと、ずっと言い続けてきた。
けれど今日、彼が肩から提げていた、あまりにもダサいバックについて、何も言えなかったのは(なお、ほかにも気になる点は多数あった)、彼が私に与えてくれた希望のせいなのかも知れない。

まあダサくてもいいから、その善良さをずっと失わないことが大切なのかも。
すまん○○君、私が年寄りになったら、年金のこととかヨロシク!