「今そこにある危機」にふりかけろ2008年08月03日 21:26

 
この世界には、育・養・増・発・植の5段活用があるが("覆"が入る変格活用もある)、最初から4つ目までのそれを、私は"ふりかけ"と呼んでいる。

自動車にたとえるなら、男性には、生まれながらにしてギアがバックに入っている人が少なからずいる。ギアを決して前進に入れることのできない特殊構造で、20代で半クラッチ状態になり、30代にクラッチが完全に繋がり、40代からはエンジン全開となる。
この「バックギア型」のタイプが一番多い気がするが、その次に多いのが「ヘリコプター着陸型」だろうか。20代でヘリコプターがどこからともなく飛んできて、離発着を繰り返すようになり、草木がなぎ倒され、30代で地面が少し・・・、いや、このあたりで止めておこう。

遺伝子の見本市である冠婚葬祭の折りには、目線をやや上にしてよく観察するのだが、私の母方は明らかなバックギア型であり、父方は両者の混合型である。いつかその危機が訪れることは明らかだった。
最初に「今そこにある危機」("Clear and Present Danger"の訳。明白かつ現在の危険ともいう)を感じたのは23歳の頃だった。ビデオに映っている自分を見てはじめて、ヘリコプターが着陸した形跡を発見したのである(父方の遺伝子が飛ばしたヘリと思われる)。慌てて「育」段階の"ふりかけ"を買ってきた。
ただ、その後しばらく、後退やら、なぎ倒しやらやらの進行が続いたものの、30代後半になると、あまり気にならなくなった。進行が止まったわけではないが、いったん繋がったクラッチがまた半クラッチになったようで、加速感がなくなってきたのである。それから次第に対策を考えないようになり、このところ、やや油断していたところがあった。

ところが去年あたりから、自分の老化を日々強烈に感じるようになった。
とくに最近は近い物がよく見えない。老眼ってやつだ。春先、職場の同僚の方に、老眼になったので眼鏡をかえようと思っているなんてことを話したら、「アラ、早いですねぇ」と言われてしまった。早いとは、普通の人より老化が早いという意味だろうか(違う意味があったら教えてほしい)。そのショックのせいというわけではなかろうが、その頃から前髪あたりに白いものが・・・。

そんなこともあって、第二次「今そこにある危機」を感じ、対策の必要性に迫られた私は、先日、久しぶりにふりかけ(育と養の中間くらいと思われる)を買ってきた。
効き目は半信半疑であるが、私が崇拝する元F1ドライバー、ミハエル・シューマッハも推薦していたという、"ふりかけ"というものの威力を信じたいところだ。というのは、かつてミハエルは、とある"ふりかけ"のTVCMに出演していたことがあるからである。決めのセリフは、

「オレにはコレが必要なのさ。」

当時は、そのミハエル本人についてはあまり必要そうに見えず、むしろ、フェッラーリの当時のチームメイト(今はホンダのチームで活躍中)の方の必要性が明らかだったため、あまり説得力がないとの批判も囁かれていた。

だが、そのCMから数年経過した現在、ミハエルには確かな効き目があったように見える(ときもあるし、ちょっとバックしたように見えるときもある)。今夜もF1レースがTVで放映されるが、ミハエルは、今もフェッラーリのチームアドバイザーとして、パドックに姿を見せることがある。
今シーズン、これからのF1中継の見所は、ヘルメットや帽子を被ってないミハエルの姿である。"ふりかけ"の効き目に注目したい(ああ、ヘッドフォンが邪魔だ!)。

飛行機のことは後回し2008年08月10日 21:20

Trani
 
プーリアには、ずっと泊まってみたいと思っていたあこがれのホテルが2つある。
一つはレッチェの"Patria Palace"。もう一つはトラーニの"Regia"。

レッチェは、街の規模の割に普通のホテルが少なく、宿泊施設はB&Bが主流。旧市街の中となると、ここ数年間は、旧市街で唯一のホテルが"Patria Palace"だった。
そのため、いつも宿泊先候補にはなるのだが、そのお値段が大問題だった。かつては、プーリアでNo1の格式とお値段を誇っていたのがこのホテルだったのである。そんなわけで、いつかは泊まってみたいとは思いつつ、そのいつかはずっと訪れなかった。

ところが、今年の4月頃、ネットでレッチェの宿泊施設を調べていたら、オンライン・ブッキング・サイトで、"Patria Palace"がキリギリ許容範囲の値段で予約できることがわかった。
やや半信半疑だったものの、さっそく、8月末に2泊の予約を入れてみた(キャンセルも期限までは自由にできるようだったし)。

もう一つのあこがれのホテル、トラーニの"Regia"は、何と言っても、そのロケーションがプーリアNo1である。
海に面した美しい大聖堂(写真)のすぐお隣。まるで大聖堂の付属施設のようにさえ見える。97年の旅行以来、その絶好のロケーションが気に入り、いつかは泊まってみたいと思い続けてきた。
このホテルは、数年前にファックスで予約にチャレンジしたことがあった。けれど、送信ができなかった。その頃は資料によって電話番号もファックス番号も違っていたりして、情報も混乱していた。予約を停止していた時期があったとか、ハイシーズンに1泊の予約をとろうとしたら断られたとかいう噂もあって、面倒なのであきらめたことがある。

ところがである。こちらもオンライン・ブッキング・サイトであっけなく予約がとれてしまった。
"Patria Palace"が売りに出ているなら、もしかして"Regia"も、と思って検索してみたら、やはり予約可能なホテルのリストにあげられていたのである。こちらも、さっそく予約。

ただ、どちらも本当に予約できているのかはいまだに半信半疑である。加えて、とくに"Patria Palace"に関しては、そんな値段ではひどい部屋をあてがわれるのではないか、という不安もある。
まあ、そのときはそのときで。

患者に向かって「満足してますか?」???2008年08月23日 12:39

これはもう十数年以上前の話になるが、ネット上の会議室で(インターネット以前の「パソコン通信」の時代のこと)、総合病院内で顧客満足度調査を計画してるので、アンケート事項について皆の意見を集めたいという質問をアップした人がいた。
それに対し、私は、医療サービスに「満足度」などというという指標を持ち込むのは危険だし、アンケートの質問事項はほとんどが的外れだと意見したことがある(私も若かったですな)。

極端な例を言えば、手当ての甲斐なく患者が死んでしまったとして、遺族に「満足している」「満足していない」「どちらともいえない」だのと質問を向けるのは馬鹿げている。
問題は、間違いのない医療行為がなされ、きちんとした患者や家族への説明があって、「納得」の行くサービスが提供されたかだと思う。確かに、英語では「満足」も「納得」も"Satisfaction"で表現するようだが、日本語で「満足」と訳してしまうと、奇妙なニュアンスが漂ってしまう。

そもそも私は、顧客満足度調査というものが大嫌いである。あらゆる事柄を「満足ですか?」と聞く、そのボキャブラリーの欠如と言葉遣いのセンスのなさが全くもって許せない。
その質問者が提案していたアンケート項目の中には、病院と自宅との距離について質問する項目があったが、それは便利・不便、遠い・近、で答えるべき項目だと思う。そこで私は、そんなことを「満足ですか?」と聞くのは日本語としておかしい、と思って回答の選択肢を変えるように意見した。まあ当然のことながら、完全に無視されてしまったが。

顧客満足度調査なるものが嫌いなもう一つの理由は、大勢の人の意見は正しいという、民主主義的な正義をちらつかせ、当事者に合理的な反論を許さないという暴力が隠されていることだ。
私が、その調査に疑問を投げかける発言をしていたのは、その調査を計画していた人の意図の中に、そうした暴力を感じていたからでもある。
どうも、その総合病院内では、とくにクレームが多く、患者から評判が悪い医師がいたそうだだが、その人は、アンケート結果をつきつけて「改善」を求めようとしていたようだ。
それ自体は一般論としては決して悪い意図ではないのだが、その標的は「産婦人科」の医師だった。

病院というところには、普通、病気や怪我を放っておくと大変なことになりそうな人や、死にかけた人がやってくる。そうした不幸を背負った人を助けてやるのが医者の仕事である。
しかし、産婦人科には全く違う人がやってくる。出産は病気ではない。やって来るのは不幸な人ではなく、一日も早くお祝いをしたい人たちだ。だから、問題が起きたときのリアクションの質が全く違う。何か悪い結果が起きたとして、病気が原因でないとすれば、その原因は医療行為以外には考えられないし、御目出度が暗転したときに受けるショックは大きい。「このままだと余命1ヶ月ですが、手術をしても成功率は10%です。」と説明したうえで手術に失敗しても、大概の人は納得するだろう。けれど、出産がらみの事故には納得できないのが普通だと思う。どんなに説明を受けたところで、どうして自分に、自分の家族にこんなことが、という思いが残るはず。
だからこそ、丁寧なケアが必要ということになるが、そのためには多くの医師や看護師を投入しなければ無理な話だと思う。

顧客満足度の調査で「産婦人科」に悪い結果が出るのはやむを得ないし、そんな結果を突きつけ、その医師の個性の問題として「改善」を求めてしまったら、事態はさらに悪くなるのではないかと私は思った。
周りから攻撃を受けるポジションにいる人というのは、余程の人格者でもない限り、それに対抗するための態度が身に染みついてしまうものだ。病院の外部からだけでなく、無理解な内部の人間にまで攻撃されてしまったら、ますます態度を硬化させてしまうのではないのか。
しかし、そのネット上の会議室の参加者の中で、こうした考えを理解してくれた人は皆無だったようだ。会議室の他の発言者の意見は、医療もサービス業の一種なのだから、顧客を満足させるために努力すべきで、そうした調査は是非やるべきだというものだった。この「正しい調査」について、イチャモンを付けていたのは、ひねくれ者の私だけであった。

最近になって、産科医不足という問題が注目されるようになってきたが、それまでは私も、こんなにひどい状況になっているとは知らなかった。
過剰な改善要求やら責任追及論やらが、私たち自身の生活に跳ね返って来ることを示した、わかりやすい一例になったのではないかと思う。
悪い結果が起きると、誰かの責任を厳しく追及しないと気が済まないのが私たちの習性だけれど、実は、その刃の矛先は常に、私たち自身にも向けられているのである。

今週、2005年に福島県立大野病院で起きた医療事故について、業務上過失致死罪で起訴された被告人医師への無罪判決が言い渡された。たぶん、5年くらい前であれば、無罪はケシカラヌという論調一色になっていたのではないだろうか。
今回、論評は様々だが、ようやくまともな議論ができる雰囲気になった気がする。まあ、医療事故に限っての話ではあるけれど。

とりあえず1194年のことから2008年08月26日 01:32

 
伝承によれば、この写真の広場で、フェデリコ2世は生まれたそうだ。
広場の一角の建物にはパネルが貼ってあって、この広場に設えられたテントでフェデリコが生まれたという説明が、4カ国語で書かれていた。
中世の王侯貴族たちは、徴税や戦争でやたら移動しまくっていた。フェデリコの母コスタンツァも、理由はよく知らないけれど、移動の途中でイエージに立ち寄り、ここで産気づいたらしい。ヨーロッパの運命を決する王子の誕生ということで、ニセ王子の疑いを払拭するべく、街の女性たちがその証人になったという話も残っているとか。

フェデリコが亡くなった場所である、あのカステル・フィオレンティーノに2度も出かけるという暴挙をやっておきながら、生誕地を訪問しないのはいかがなものかと、ずっと気にはしていた。だがようやく、今日、無事にイエージの「フェデリコ2世広場」を”巡礼”することができた。
ただ、フェデリチャーノの聖地にしては、皇帝像なんかも建っておらず、やや味気ない広場という気もする。建物も比較的新しく、なんだか明るすぎる。”フェデリコ”という名のバールもないし・・・。

もちろん、この街には皇帝様の銅像がちゃんと建てられているのだが、そちらは街の城門の外側にある。
この広場に建てるのが普通の発想と思うのだけれど、広場には教会が二つも建っているので、破門された超有名人の像を建てるのはまずかったのだろうか。
数年前だったか、その皇帝像の移転計画が持ち上がり、議論があったと聞いたことがある。フェデリコ2世広場に移動しようという話も出ていたそうだ。
しかし、議論が始まったら何が飛び出して来るかかわからないのがイタリア式民主主義である。議論の末、とんでもないところに移転されたのではかなわない(やりかねないからね)。今回、無理矢理イエージ訪問を旅程に押し込んだのは、そういう事情もあったからだった。どうやら、まだ移転の話は具体化されていないようで、こちらも無事に見学完了。

イエージの街は、城壁に囲まれた小高い丘の上にある。穏やかで落ち着いた感じがする街だ。これといって名所や名物があるわけじゃないけれど、今日のフェデリコ2世広場には、私だけでなく、ちゃんと家族連れの観光客もいた。
もっとも、一眼レフのカメラをぶらさげ、やる気満々だったのはお父さん一人だけで、ほかの家族はみんな日陰に固まり、呆れた顔してたけれど・・・。ま、そういう場所ですから。

そういえば、駅に降り立ったとき、海辺の街でもないのに潮風を感じた。
アドリア海から風が吹いていたのだろうか。

(記事は8月25日に書きました)

小さな酒池肉林2008年08月26日 04:58

 
イエージの晩飯は、昼間のうちに目を付けておいた、フェデリコ2世広場近くのオステリアで。
昼間の散歩では、もう一軒、”風変わりな猫”という魅惑的な名前の店も候補になっていた。けれど、その店は、ちょうど夏休みだったようで、もう一つの候補の店に入ってみた。

メニューの中身はだいたい見当がついたのだが、一つだけ全く意味がわからない料理があった。
L'Albero di "Cuccagna" って、いったい何? Albero(=木)を食べるってどういうこと?
お店のお姉さんに尋ねてはみたものの、早口のイタリア語だったため、かろうじて肉を焼いた料理らしいことだけはわかったが、これまた意味不明。
辞書で"Cuccagna"を調べてみたら、「桃源郷、極楽」という意味とのこと。
それなら何だかわからないけれど、面白そうだというだけの理由で注文してみた。

それで出てきたのが写真のやつ。
肉が木に刺さっていて、なるほど、桃源郷あたりに生えてそうな木であった。
この店、ワインは1ccあたり1円という安さ(1.5Euro/250cc)。
大勢でやってきて、そのL'Albero di "Cuccagna"を何本かと、10リットルくらいのワインを頼んだりしたら、きっと小さな酒池肉林が楽しめるに違いない。

Sannicandro+ビット4兄弟+12008年08月27日 00:32

Castello Federiciano 今日は、バーリの宿を出発して、最初の目的地 Sannicandro di Bari を目指す。
まずはノルト・バレーゼ鉄道でBitontoまで行き、そこからSTPのバスに乗り換えた。

この種の近郊の街をつなぐバスに乗るのは面倒なことが多い。
バス停が鉄道駅前にあるとは限らない。切符はバスの中では買えず、売ってる場所がわからない。車内アナウンスがなく、バス停にも名前が書いてないから、降りるべき場所がどこか、わからない。
やはり、BitontoのSTPのバスは、駅前からは出ていなかった。とりあえず、街の中心まで行ってみると、立派なインフォメーションがあったので聞いてみると、すぐ近くのBarが切符売り場で、その場所からバスが出るとのこと(3人がかりで調べてくれました)。

そうやって、無事にバスに乗れはしたものの、今度は、降りる場所が問題になった。
この路線は、Bitontoを出てから、Bitetto,Binettoの街を経由して、目的地Sanniandroに至る。乗り過ごすと、Bitrittoに行ってしまう。よくもまあ、紛らわしい地名をいっぱい付けたものだが、ジグザグに進みながら、その全部を廻るバス路線である(したがって「ビット4兄弟線」と命名してやった)。地名を頭にたたき込んでおかないと、どこまで進んでいるのか、まるでわかったものではない。
もっとも、そろそろ着きそうだと思ったところでバスの運転手に声をかけたところ、お目当ての城の場所と、帰りのバス停を教えてもらうことができた。

その城は、Castello Federiciano と呼ばれている。
例によって、フェデリコ2世の城である。角張ったそのデザインは、バーリやトラーニなどの城とよく似ている。
ただ、ここは修復工事の最中らしく、中には入れなかった。
城の一部が屋敷に浸食されていたが、その部分には図書室らしきところがあって、そこの窓から中を少し覗ける程度だった。
察するところ、昔は城がポツンと建ってるような場所だったに違いない。街はあっても、小さな範囲にしか家並みはなかったのだろうと思う。街の教会も比較的新しい時代に建てられたもののようだった。

Cattedrale / Bitonto Sannicandroの滞在時間は1時間程度。まあ、あんまり観るところはなかったし。バスでBitontoに戻り、大聖堂を観に行った。
これまた時間帯が悪く、中に入れなかったわけだが、なぜか鉄柵の向こう側にガキンチョがいた。なんだ中に入れるのか、と一瞬思ったが、なるほど写真のとおり。


Cattedrale / Ruvo Bitontoもあまり長居をせず、次はRuvo di Pugliaの大聖堂を目指した。
こちらもプーリアの大聖堂の代表選手である。ユニークな"なで肩"のデザインが美しい。
バラ窓の上に、椅子に座ったような人物像があるが、これもユニークで、ありがちな聖人像とは全く雰囲気が違っている。ずんぐりむっくりの丸顔で、聖人らしくない。膝の上に書物を開いていることもあって、フェデリコ2世の像である可能性あるとかないとか。

と、今回もフェデリコ・ツアーで始まってしまったけれど、フェデリコ・ツアーは今日でおしまい。
明日からは、普通の観光地を巡る予定。

沿岸3兄弟2008年08月28日 00:52

Citta Vecchia / Bisceglie トラーニとバーリのとの間の沿岸部にはBisceglie,Molfetta,Giovinazzoといった街がある。
この区間は、何度も鉄道で往復したことがあるが、遠く街の大聖堂が見えたりして、いつも気になっていた。ただ、バーリから1時間とかからない範囲にあることが、かえって実際に訪問する意欲につながらなかった。プーリア旅行の起点となるバーリに到着すると、頭の中は次の訪問地でいっぱいになっている。また、最終日にバーリに滞在することになって、時間に余裕があっても、もうくたびれ果ててしまっている。この三つの沿岸部の街へは、「きっといつかは行けるだろう」と思うだけで、実際に足を運んだことはなかった。

というわけで、今回の消化試合第二弾は、この沿岸部3兄弟の制覇である。
いずれも古い港町で、旧市街には立派な大聖堂がある。

まずはバーリを出て、鉄道でBisceglieに。
ここは、3つの街の中で、最もディープな旧市街のあるところだった。
迷路のような旧市街はどこにでもあるが、ここは道が狭くて暗く、壊れたまま建物も多い。住民たちから、何かと視線を向けられる。「観光客なら、港に行ってボートにでも乗っろ」という感じである。カメラをぶら下げて、気楽に散歩できるような雰囲気ではなかった。
大聖堂のあたりも周囲の道が狭くて、たどり着いたのに、最初はそこが大聖堂だとは気がつかなかった。2階の窓から声をかけてくれた人がいて、それで自分が大聖堂を目の前にしていることがわかった。
写真は旧市街のサン・マッテオ教会。黄色い自転車に乗った郵便配達のおばさんが、2階の窓の人と話をしているところ。実はこの二人、私の存在を気にして、私が立ち去るまで郵便の受け渡しをしようとしなかった。

Molfetta 次のMolfettaは、Bisceglieに比べると旧市街も開放的な感じがした。
ここの旧市街は、街ができたときから都市計画がはっきりしていたのか、楕円形の旧市街に、縦横に真っ直ぐな道を何本も通してある。道は狭くても、見通しが良い分だけ「安全」な感じがする。
旧市街の南壁は、今はたくさんの商店や住宅になっているが、かつては城壁だったのだろう。上に登れそうな通路があったため、上がってみた(右写真)。端から端まで歩いて、どこかまた降りられる通路があるだろうと思っていたら、どこも普通の住居の窓や玄関があるばかり。ここの住民は、きっと自宅に別の出入り口をもっているに違いない。

Giovinazzo 最後の目的地Giovinazzoは、楽しい散歩ができたところだった。
旧市街は迷路のようだが、商店や飲食店が点在していて、よそ者を拒むような厳しい雰囲気がほとんどない。きっとおいしいレストランがみつかりそう。来た時間帯が悪くて(お昼寝タイム)、食事を楽しめなかったのが残念だった。
ホテルは全く見かけなかったけれど、確か、新しいホテルができたはず。次回はここをプーリア最後の宿泊地にするという計画が頭に浮かんだ。

というわけで、3兄弟を一応制覇したわけだが、また宿題ができたGiovinazzoであった。
ああでも、まだMola di Bariが残ってるか。

ロコロトンド2008年08月29日 20:38

 
今日は、バーリを出てマルティナ泊。
11年ぶりに、SUD-EST線の列車に乗って移動した。

バーリ駅のホームに切符売り場があって、いきなりバーリの始発が遅延したり、どの駅舎にも過剰と思われる大勢の駅員がいて、ディーゼルエンジンの排ガスの臭いが客車に漂ったりするところは、相変わらずである。
しかし、さすがに機材は更新されているようで、冷房が入っているのにまず驚き、短いトンネルに入る前に、客車内の蛍光灯が点いたりしたのに驚いた。やはり、愛すべきSUD-EST線も、少しずつ変化して行くのだろう。

本日の目的地はロコロトンド。
宿泊するマルティナもそうだが、このあたりの「白い街」の一つである。
午後2時くらいに着いたのだが、お昼寝タイムなのにレストランが開いていた。さすがは観光地。ここで昼食をとればよかったと後悔した。
実際、小さな旧市街の中は、観光客がいっぱい歩いていて(といっても10人くらいだけど)、日本人の姿もあった。

今回マルティナに宿をとったのは、SUD-EST線を楽しもうという気になったからでもある。
まずは、車窓からみたロコロトンドの街(写真)。
世界遺産アルベロベッロに連泊して、SUD-EST線で一駅先のロコロトンドに行く人も多いようだが、それだとこの景色はみられない。もう一駅先のマルティナとの間に絶好のポジションがある。もっとも、車窓からの眺めなので、お楽しみは一瞬だけれど。

明日は、SUD-EST線でレッチェまで行くつもり。
変化に富むプーリアの風景をゆっくり眺めたいと思う。