"Escape from Freedom, NIPPON 2011"2011年07月13日 23:01

東京・新橋あたりの居酒屋では今もなお、エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』("Escape from Freedom, New York")は、常連さんのオジサンさんたちによって、こんな風に説明されているのだろうか。
「自由を与えられた人間は、その自由を持て余して不安にかられ、その自由から逃げ出してしまう。過度に自由を与えることは、かえってその人のためにならない。自由という奴は、実はとても面倒くさいもので、人間はむしろ、束縛されていた方が幸せなのだ・・・。」

酔っぱらいのオジサンたちは、青春時代に夢見た自由な未来(たぶんマルクスとかが約束してくれていた社会)と、遙かなる旅を果たせなかった敗北感を抱えつつ、この書物のタイトルをじっと見つめ、そしてその意味を(中身は読まずに)"想像"する・・・オッサン自らの愛に満ち溢れた助言を理解しようせず、それを理不尽な束縛としか受け止めない娘(「同級生の陽菜ちゃんのお父さんは私たちの気持ちが分かってくれて、ずっと素敵なのに」とか言うしね)への義憤を胸に、『自由からの逃走』について語り、私たちオジサンは二次会のさらなる深みへと嵌って行くのである。

しかし、フロム自身は、そのような「自由なんて、所詮はそんなもの」というニヒリズムを否定するために、この書物を書いたはずだった。
中世的な束縛(自らが生きるべき道筋が明確に強制されていた)から解放された近代人は、生きるための指標を失い、常に何をなすべきかについて悩み戸惑い、不安に苛まれることになったというのがフロムの分析だった。だから、そのかつては当たり前だった束縛と強制によって与えられていた安堵感を示されると、人々はそれに飛びつき、たやすく自由を放り投げてしまう。とくに危機的な状況に直面した人々は、その安堵感を追求し、ナチズムさえも肯定てしまう。そうした危うさをフロムは生々しく描いてみせたわけである。

それで、私たちオジサンは、「ああやっぱりね。だからこそ若者には規律と強制が必要なんだ。だから若者よ、息子よ、娘よ、部下たちよ! 幸せになりたいのなら私の言うことを聞きなさい!」と叫びたがる。けれど、フロム自身の問題意識は、その真逆だったと言える。

フロムは、ナチスの迫害を逃れてアメリカへと渡り、この書物を書いた。
ワイマール憲法という最も進んだ理想を掲げた文明国ドイツにおいて、なぜナチスは生まれ、人々の熱狂的な支持を得るに至ったのか、そのメカニズムを世に示し、ナチスによる悲劇の「再発防止」を願って、『自由からの逃走』という警告を発した・・・と私は理解しているのだが。

フロムの警告が、この2011年の危機的状況にあるニッポンにおいて、再現されることがないよう願うばかりである。
しかし、この手の分野を専門にしておられる先生方も、自由についてあれこれと語ることを専門にされている先生方も、何やらもっと手の込んだ難解な議論をするのに忙しく、結局は政治家や役人の責任の問題だという理屈をひねり出すことに頭がいっぱいだ。この問題の核心が実は、普通のオジサンの個々の考え方にかかっているのだということを、それが有権者一人一人の責任の問題なのだということを、誰も言おうとしない。市民が国民が生活者が自由を破壊するのだ、という恐怖について、誰も語ろうとはしない。

テレビや新聞などのマスメディアは、今や完全に、そのフロムが警告した「逃走」を始めてしまっている。その正義感ゆえに全速力で自由を蹴散らし、大きく腕を振りながら、自由を抹殺しようとする権力者と軍隊に声援を送っている。昭和の戦前のメディアがそうだったように・・・としか、私には思えない。

だから、ちょっとだけ”気の利いたオジサン”になるために、そのフロムの真意を若者たちに説教してみませんか、というのが私の提案である(とりあえず、言うことを聞かない息子や娘のことはさておき)。
「"普通のオジサン"は『自由からの逃走』を誤解しているけれど、本当はこうなんだぜ!」と言えるオジサンを目指してみませんか。