【後】カメリエレの作品2012年05月03日 00:23

(2012月1月7日:Napoli)

この写真は私が撮ったものではない。

ナポリのとあるトラットリアで、夕食をとっていたときのこと。
いつものように、私のテーブルを担当しているカメリエレに、料理の写真を撮ってもいいかと尋ね、許可をもらった。それで、堂々とテーブルの上にカメラを置き、料理が来る度に写真を撮っていた。

すると、そのカメリエレが、カメラが大好きだから、私のカメラを少し使わせてくれと言ってきた。
頼まれたその時点で、私のカメラは、すでに彼の手の中にあった。カメラをぐるぐる回転させながら、あらゆる角度からなめ回すように観察している。カメラに向けられたその視線の鋭さに圧倒され、断る気にもなれず「どうぞ」と返事した。

そのカメリエレがまた戻ってくるまで、15分以上かかった。道端で、そのカメラが"現金化"されている可能性について私が少し考え始めた頃、彼がカメラを持って戻ってきた。
そして、彼が手際よく「再生」ボタンを押し、彼が撮ってきた写真を見せてくれた。この写真はその中の一枚である。

ほかに、厨房で働いている何人ものオッサンたちが、ポーズをとっている写真が何枚かあった。
直接許可を取っていないのでアップできないけれど、これらの写真が秀逸。シャッターを切るタイミングが絶妙で、働くオッサンたちが生き生きと描写されていた。しかも、ピントがしっかりしているし、手ぶれも抑えられている。
私のようにカメラは好きだけれど雑に写真を撮っている、というわけではなく、キチンと写真をやっている。

さすがは芸術の国イタリアであった。

【後】ナポリ大学の正式名称2012年05月04日 22:01

(2012年1月8日:Napoli)

ナポリ大学(写真)の正式名称は"Universita` degli Studi di Napoli Federico Ⅱ"だ。
この大学は、1224年6月5日、フェデリーコ2世によって創設された。だからこうして、フェデリーコの名を誇らしげに、大学の正式名称に組み込んでいるのである。

私がこの"名称"のことを初めて知ったのは、イタリアのレストランで、ミネラル・ウォーターのボトルを眺めていたときのこと。
ラベルに記載されている水の成分表の欄で、"FedericoⅡ"の文字が目に留まった。
ミネラル・ウォーターのボトルには、どんなミネラルが含まれているかの成分表が表示されているが、その分析をした研究機関の名称も記されていることがある。ナポリ大学が水の分析を担当した場合には、当然、フェデリーコの名がペットボトルの記載に登場するというわけである。

ボローニャやパリなど、代表的なヨーロッパの古い大学が学生ギルドによって創設されているのに対し、南イタリアでは、大学が君主フェデリーコによって創設されている。
数百年もの歴史を誇る大学の名称に、君主の名を刻み込んでいるのは、たぶんここだけだろう。

【後】卵城にて2012年05月07日 23:49

(2012年1月8日:Napoli)

これまたすっかり忘れていた。かの有名なナポリの卵城のことを。
この城はあまりにもメジャー過ぎて、自分が行くべき場所ではないと思い込んでいた(笑)。
実際、行ってみると見学客でごった返しており、私がよく行く「城」にしてはやけに賑やか。どうも調子が出ない。

しかし、ここも12世紀のノルマン期に建造された城だった。シチリア王国の初代王ルッジェーロ2世の時代のこと。
現在の外観があまりにもノルマン的でないため、ずっとこのことに気づかなかった。ナポリに滞在しようと決め、いろいろ観光情報を調べていて、初めてわかったのだから情けない。

むやみにマニアック路線ばかりを走ってばかりいると、普通に誰もが知っているような情報に疎くなってしまうのかも。

金環?だったらしいのだが2012年05月22日 01:30

(5月21日午前7時30分、松本市の自宅にて撮影)

今朝は金環日食があった。
こんなに晴れるのなら、ちゃんと事前に準備しておけばよかった。

当初の天気予報では曇りとの予報だったし、先週は火曜~木曜が名古屋で、金曜が上田、土日が名古屋というスケジュールで疲れていた。朝早くから日食をみようなんて思っていなかった。

ところが、朝起きてカーテンを開けたら晴れている。
これまで、とかく天文関係のイベントには運がなかった(とくに○○流星群の類は不発ばかり)。こんな幸運を逃しては一生後悔すると思い、あれこれと光学系の道具を集めて態勢を整えた。

6時50分頃、サングラスを2枚重ねにし、ヘルメットのスモークシールド、カメラ用の偏光フィルター2枚重ね等々を通して太陽をみてみると(よい子たちは真似しちゃだめよ)、すでに太陽が欠けている・・・のが見える!

急ぎカメラと三脚を用意し、金環日食となったあたりで撮ったのがコレ。
きれいな金環に撮れてないのは、フォーサーズのカメラに20mmレンズを装着し、色補正フィルター赤系青系を重ね、さらに偏光フィルターを2枚重ねしてNDのかわりにし(よい子の皆さんは真似しないでね)、無茶をして撮ったせいだろう。右下の細い線が出なかった。
なんとか撮れる露出に持ち込めたのは、各種フィルターが揃っていたこのフォーサーズの20mmレンズのみ。α700にも望遠系を装着して試してみたが、ちゃんと撮れなかった。

ちなみに、日本で、金環ではなく、皆既日食がみられるのは2035年だそうだ。
子供のころ、皆既日食をみるには、自分が70歳を越える年齢まで待たないといけないと知り、みるのは絶対に無理だと思った(1999年で地球が滅亡する予定だったし)。
しかし、こうして年齢を重ねてみると、2035年なんてもうすぐ、という感じ。この皆既日食には、特殊NDフィルターを用意して臨もうと思う(そうやって準備しておくと曇りになったりするのだが)。

【後】バルレッタの宿題2012年05月22日 22:18

(2012年1月9日:Barletta)

この日(1月9日)、ナポリを出発し、午前中のうちにプーリア州に入った。
そして宿泊地フォッジャに荷物を置き、バルレッタへ。

この街にはフェデリーコ2世の城があり、内部には市立博物館がある。私が98年に訪問した際には、その博物館が収蔵品の整理などで公開されていなかった。つまり、この博物館の最も重要な収蔵品であるフェデリーコの胸像を、私はまだみていないのである。

というわけで、その宿題を片付けようと、駅から真っ直ぐに城に向かった。
しかし、またも博物館に入れなかった。なんと休館日だったのである。
守衛さんに「今日は閉まってるんですか?」と聞いてみると、「イタリアでは月曜日に美術館や博物館がみんな休みになるんだ。知らなかった? 明日来て下さい。」と言われてしまった。

ま、それが私にとってのプーリアの旅というもの。
また来る口実ができて良かったと苦笑いしつつ、繁華街の方へ移動。

街を散策しながら、98年に行ったことのあるトラットリアを探してみた。
その店では、確か豚肉のソテーを食べたはず。脂身の部分が透明がかっていて(私が幼い頃にはそれが普通だった気がする)、懐かしい味が楽しめた。
当時はどこへ行っても日本人ということだけで珍しがられ、店の奥さんが厨房から出てきて、いろいろ話かけてくれた。私が帰ろうとすると、また厨房から出てきて握手を求められた。
それで、翌日もその店で食事をしようとしたのだけれど、ちょうど定休日になっており、ほかに適当な店が見あたらず、非常に苦労した記憶がある。

たぶん、写真の広場にそのトラットリアはあったのだと思う。
しかし、それらしき店は見あたらなかった。
違う場所なのか、店はなくなってしまったのか、夜に来てみればわかるのか・・・。

とりあえず、「また来て確かめることにする」と決め、この日はバルレッタを後にした。
そんなこんなで、いつまでたっても、プーリアの旅は終わらない(ようにしている)。

【後】カフェ・アメリカーノのやり方2012年05月24日 00:53

(2012年1月10日:Foggia)

写真はフォッジャの駅にあるバールで、昼食をとっていたときのテーブルの様子。
右側のカップは、イタリアのバールの定番メニューであるエスプレッソである。それで、左側の金属製の容器には、お湯が入っている。"Cafe Americano"を注文したら、この2つが出てきた。

なるほど、(右の)エスプレッソを(左の)お湯で"割る"と、カフェ・アメリカーノが出来上がるというわけだ。
このエピソードを、職場の若い舎弟たちの一人に披瀝したところ、「またikeさんはテキトーなことを言ってるでしょ。デタラメなことを私たちに信じさせようとしてるようですが、ますます嘘がヘタになりましたね。」と言われたが、いや本当なのである(この写真が証拠だぞ!)。

この飲み方の難点は、全部のお湯が一度にはカップに入りきれないため、後でお湯の注ぎ足しをせざるを得ないこと。まるで蕎麦屋でそば湯を飲んでいるときのように、その"カフェ"はだんだん薄くなってしまうのである。
しかも、最初に入れておいた砂糖の甘みも薄くなるため、甘みの調節も難しい(それは、そば湯を飲むとき、残しておくべき薬味の量の加減にも似ている)。

要するにこれは、イタリア式エスプレッソを母体としつつ、方法論を日本のそば湯に求め、名前とその濃度をアメリカからとったような「日伊米合作」みたいな飲み物なのである。

おそらく、来日されたフォッジャ出身の方に”そば湯”の飲み方を教えるとしたら、"Questa bevanda giapponese, prende come cafe` americano, per favore."とか何とか、だいたいこんな風に言えばよいのではないかと思っている(すいません、どなたかイタリア語の添削お願いします。この夏、フォッジャから松本城見学にやってきた美女をナンパして蕎麦屋に連れて行く予定なので)。

【後】古城を独占できた夜2012年05月30日 00:30

(2012年1月10日:Bovino)

この日、フォッジャからバスに乗ってやってきたのはBovinoの街。
この街の"Castello Ducale"が、レジデンスになっているという情報を得て、宿泊してみることにした。

この城は、ロベルト・ギスカルドによる南イタリア征服よりも少し前、鉄腕グリエルモの後を継いだドロゴーネが使用していたらしい(興味のない人にとってはどうでもいい話だろうけど)。そのため、ノルマン城の一つといえる。
残念ながら、ホーエンシュタウフェン朝時代にはフェデリーコ2世の直接支配下にはなかったらしく、家臣クラスの居城になっていたらしい。
いずれにせよ、この城の起源はかなり古く、このように歴史の積み重なった城に泊まれるとは、何とも嬉しい限りである。

城は街の一番てっぺんの高台にあり、城門から城に辿り着くのにも長い坂道を登る必要がある。城だけでなく、その坂道までが両側からライトアップされている。坂道を登りながら、今目の前にしている城に自分が眠るべきベッドがあるのだ、という優越感は最高であった。

だが、この写真を撮って中に入ってからは、あまり喜べない状況が待っていた。何と、この日の宿泊者は私一人だったのである(冬だから当たり前か)。
レジデンス方式であるため、ホテルとは違って、スタッフが全員帰宅してしまっていた。要するに、この高台にポツンと建っている"城跡"に、一人きりで一夜を過ごす、という状況だった。
この状況は、城主気分で優雅に眠るというより、たった一人で城番をやっているという感じ。

何しろ大昔から城として使用されていた場所であるからして、ここでは戦闘やら処刑やらで大勢の人たちが死んだに違いない。おまけに、城の中庭には祠のようなものが設えられている。私がこの城に泊まる予定であることを知人に自慢していたところ、その相手が、「何か"出たら"電話して」と言っていたが、期待されていた意味がよくわかる。
城の中庭に入り、自分以外、誰もいないという状況を目の当たりにし、「出る」ことの方が心配になってきた。

で、何が「出る」かだが、中庭の戸を開いて階段を昇り、部屋に戻ってみると、幽霊系のものは全く心配の対象にはならなくなっていた。
この心境は、自分でも不思議だった。私は、どちらかというと、その手のものが恐くてたまらないタイプなのである。けれど、深夜、街の人たちが住んでいる場所から離れ、高台に一人きりでいるというリアルな状況に身を置いてみると、幽霊系よりも生きている人間が「出る」ことの方が心配になっていた。つまりは"強盗"の類、ならず者たちの出現である。
もし襲われたとしたら、抵抗する術がない。助けを呼んでも間に合わない。

まあ、結局は何も出なかったのだが。

かなり昔に読んだ本でタイトルなどは忘れたが、登山が好きな北杜夫氏が、こう書いていたことを思い出した。
一人で山に入って夜を迎えたとき、恐いのは幽霊の類ではなく、暗闇から現れる生身の人間の方なのだと。
なるほど、と思ったノルマン城での一夜だった。