〔後〕ヤッファ条約2013年04月27日 01:14

 
今回の「フェデリーコツアー・イスラエル編」で、最も重要な訪問地はヤッファ(Old Yaffo / Tel Aviv)だった。
なお、訪問当日の記事はこちら↓
http://ike.asablo.jp/blog/2012/12/27/6672804

1228年9月、十字軍を率いてアッコンに到着したフェデリーコは、アイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルとの交渉を進めた。
1229年2月11日、ヤッファにおいてフェデリーコとアル・カーミル間で平和条約が結ばれ、2月18日に発効。3月17日にはフェデリーコが聖地エルサレムに入った。

この条約の内容は、エルサレムをキリスト教徒とイスラム教徒とで共同統治しようというもの。
神殿の丘のイスラムの聖地はイスラム教徒が管理することになり、それ以外の旧市街はキリスト教徒側に引き渡されることになった。ただし、10年間の期限付きであった。
十字軍の歴史の中で、ヨーロッパ側がエルサレムの奪還に成功したのは第1回十字軍と、このヤッファ条約によったフェデリーコの十字軍のみだ。

実は、平和条約を結んでエルサレムをヨーロッパ側に、という話はその10年前にもあった。
アル・カーミルは、1219年、本拠地エジプトを攻められた際にもエルサレムとパレスチナを譲ると提案していた。だが、聖戦にこだわったヨーロッパ側がその提案を拒否していた。
結局、戦闘続行となり、反撃に出たアル・カーミルはヨーロッパ側の海軍を壊滅させる。そのうえでアル・カーミルは、ヨーロッパ側に30年の休戦条約を提案した。しかし、またもヨーロッパ側が休戦を拒否。
最終的にはアル・カーミルが完勝してしまったため、そんなこんなで、エルサレムの引き渡しの話は立ち消えになった。

アル・カーミルは、かの有名なクルドの英雄サラディンの甥にあたる。しかし、伯父がイスラム世界をまとめた「聖戦」というイデオロギーには染まってはいなかったようだ。
フェデリーコもそうなのだが、このスルタンも宗教的なこだわりがない聡明な人物だった。この二人の組み合わせだったからこそ実現できた聖地の和平といえるのだろう。

そのせいだろうか、このヤッファ条約は、当時の人々には理解しがたい暴挙にみえたようである。フェデリーコはキリスト教世界の世論から聖戦になってないと非難され、アル・カーミルはイスラム世界の世論から裏切りだと非難された。

まあ現代においても、領土問題に妥協などあってはならないというのが「世論」なのだから、今も昔も変わっていないとも言える。
まして、「もっと強く言う」とか「粘り強く説得する」とかすれば軍事力なしで解決できるのだという、中高生の弁論大会レベルの「世論」が有力な国もあるわけだから、私たちは少しも進歩していないのかも知れない。

写真はエルサレムのコットンマーケット。
ヤッファ条約による10年の和平によって経済活動が活発化し、生まれた市場だそうだ。

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プーリア

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