〔後〕友よ 寛大なる者よ2013年05月07日 01:16

 
ヤッファ条約へとつながるアル・カーミルとフェデリーコの信頼関係は、フェデリーコが十字軍に出発する前から築かれていたらしい。
アル・カーミルは、皇帝として十字軍を率いるであろうフェデリーコに関心をもち、ファクルッディーンという外交官をパレルモに送った。フェデリーコが流暢なアラビア語を話し、先進的なイスラム文化を深く理解していることに驚嘆したファクルッディーンは、アル・カーミルに対し、フェデリーコが普通の王様でないことを報告する。
そして、この外交官を通じ、アル・カーミルとフェデリーコとの友情が発展していった。当初は、論理学や天文学といった学問に関する書簡の往復があり(これもアラビア語で行われたらしい)、アル・カーミルからは珍しい動物や天文観測儀がフェデリーコに贈られた。

この事前の書簡のやりとりを通して、フェデリーコは、軍事力によらず、交渉でエルサレムの奪還を実現できると踏んでいたようだ。
アル・カーミルとしては、その頃、エルサレムが仲の悪い弟のアル・ムアッザムの支配下にあったため、むしろ友人であるフェデリーコにエルサレムを占領してもらった方がよいと判断していたとも言われている。
フェデリーコは、それなりの見通しがあったため、身辺警護のための最小限度の軍隊しか現地に連れて行かなかったわけである。その意味では、ヤッファ条約による和平は、相互の利害がたまたま一致したために生まれたものでともいえる。

アル・カーミルもフェデリーコも、「聖地」を特別扱いせず、合理的な損得勘定で動いていたわけで、平和主義の思想に基づいてヤッファ条約を結んだわけではない。おそらくは、この方々が最も忌み嫌ったのは、その種の「主義」がもたらす馬鹿馬鹿しい争いごとだったのではないだろうか。
そんな二人の感覚は、キリスト教世界からもイスラム世界からも理解されなかった。

ちなみに、エルサレムのダビデの塔は、エルサレムの歴史を辿ることのできる博物館になっているけれど、フェデリーコのことには全く触れられていなかった。

イタリア半島部のプーリアで死んだフェデリーコの遺体はパレルモに運ばれ、大聖堂に葬られた。
埋葬された際に彼が身につけていたシャツの袖には、次のような言葉がアラビア語で刺繍されており、これはアル・カーミルへ宛てたものだと言われている。なぜアル・カーミルへのものなのか、その根拠はよくわからないが(友達がほかにはいなかったからだろうか)、本当だとしたら、泣ける話である。

 友よ 寛大なる者よ
 誠実なる者よ 富める者よ
 勝利者よ

コメント

_ Shanry ― 2013年05月07日 18:30

現実主義者同士は(利害が一致すれば)手を結びやすい、でも、周りからは理解されない。

フェデリコって、ほんと色々と考えさせてくれる多彩な人だわ。
ウム

_ ike ― 2013年05月08日 00:50

中世と近代の境界、そして西洋と東洋の境界、という十字路の中心にいたのがフェデリーコなのだと思います。
どの位置からみても、向こう側(敵)の人にしか見えない。

フェデリーコは、アル・カーミルに宛てて、自らの孤独を訴えるお手紙を送っていたそうですが、そういう孤独な十字路に立っていた皇帝様にとって、世界はどんな風に見えたいたんだろうか。
あのシャツの袖の文言を読むたびに、泣けてきます。

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