【後日談】妻たちのクリプタ2014年09月06日 00:51

 
ここはアンドレア大聖堂の地下聖堂。

フェデリーコの2番目の正妻ヨランダ・ド・ブリエンヌ(エルサレム王位を継いでいた)、3番目の正妻イザベラ・オブ・イングランド(ジョン王の娘)が埋葬された場所である。
アンドレアの大聖堂には、2004年にも行ったことがあった。しかし、辿り着いた時間帯が悪くて中には入れなかった。まあ、開いてる時間を事前に調べないで立ち寄る私も悪いのだが・・・。

今回(2013年12月19日)は、バルレッタでフェデリコの胸像を拝んだ後で、バーリへの帰り道に立ち寄ってみることにした。
着いてみると、警備員風の制服を着ているお兄さんが出入り口を塞ぐようにして若い女性2人とおしゃべりをしており、そろそろ閉まる時間という雰囲気だった。その3人の間をサッとくぐり抜けて大聖堂に突入。しばらく大聖堂内を見学させてもらいながら、地下への入り口を探っていた。
だが、そのような入り口を指し示す看板などもなく、3周ほど中を巡ることになった。最終的にこの階段が怪しいと思って降りてみると、その空間の壁には、フェデリーコの妻2名の名前が書かれたパネルが貼ってあった。

私にとってみると、大聖堂の1階より上の部分よりも、この地下聖堂の方が重要である。
こんな写真を撮ったりしながら地下でずっとブラブラしていたら、警備のお兄さんが私を探しに来てくれた。どうやら門を閉める時間らしい。
こうして、ギリギリのタイミングで9年来の宿題をクリア。そしてまた、プーリアに出かける口実が一つ減った。

【後】バルレッタ城の広大な地下空間2014年09月14日 00:27

2013年12月19日

この写真はバルレッタの城のもの。前回の記事と同じ場所じゃありません。
フェデリーコの胸像との対面を果たし、屋上からの眺めも堪能し、さて帰ろうかという頃、例によって怪しい階段を発見してしまった。そう、地下への階段である。

下へ降りてみると、そこには広大な地下空間があった。
写真と同じような大空間が何カ所もあり、通路でつながっていた。通路といっても幅が広くて天井も高く、倉庫などに使用できそうな空間がずっと連なっているような感じ。

歩いても歩いても次の空間がみつかる。途中で「なぜ私はこんな地下室ばかりを彷徨っているんだろう」と馬鹿馬鹿しくもなり、帰る道を覚えているんだろうかと不安にもなったのだが、フェデリーコゆかりの城を途中で帰るわけにも行かない。最後の部屋まで歩き切ってから地上へ出た。おかげで地下の見学だけでかなり時間がかかってしまった。

城を出てから城全体をみてみると、どうやら私が地下と思っていた空間は、深く掘り下げられたお堀の底からみれば1階部分にあたるようだった。ということは、本当の地下室が別にあるのかも知れない。
巨大な城には、まだまだ入ったことのない空間がいくつもありそうだ。

【後】見知らぬ町ターラントの印象2014年09月19日 00:22

2013年12月20日

ターラントという街へ足を踏み入れたのは今回が初めてだった。列車で通過したことは何度もあったのだけれど。
しつこいほどのプーリア行脚を続けながら、これまでターラントを避けてきたのは、危険な街というイメージが強かったのと、フェデリーコ関連の見所がなかったためだった。だが今回は、Massafra訪問の拠点として、どうしてもターラントに宿泊する必要があった。

ターラントのイメージを悪くしていたもう一つの原因は、辻邦生氏が1967年に発表した「見知らぬ町にて」という作品の存在だった。この作品のモデルとなった町がターラントなのである。
何しろ、書き出しが「ひどく疲れていた」である。何とも暗い。この疲労感に最後まで付き合わされる。しかも、ストーリーが茫漠としていて、何度読んでも書かれている内容が読み取れない難解さがある。ほんと疲れる。
辻氏は、1959年にギリシャからシチリアに向かう列車の旅の途中で、ターラントで半日も足止めを食らったそうだ。「私の眼には、タラントの町は現実の町ではなく、実体のない影のように見えた」とのこと(『微光の道』新潮社)。
とにかく、行きたくなくなるような情報ばかりだったわけだ。

行ってみれば何のことはない、普通の街だったのだが。
新市街はとても都会的で明るく、北の街の雰囲気に近い感じがした。クリスマスの電飾がきれいで、大勢の人が夜遅くまで通りを散策していた。遅くまで酒飲みを続け、1人でホテルまで歩いて行っても、とくに危険を感じるようなことはなかった。
ただ、さすがに旧市街の方は凄みがあった。安全策をとって昼間のDuomo通りのみを散策するに留めたけれど、建物の壁は黒いし、脇道を覗いてみると廃墟になっている建物も目立つ。もっとも、少しずつ整備は進んでいるようなので、いつかは小綺麗で楽しい街に変身するのだろう。

ちなみに、辻氏が立ち寄ったと思われる国立博物館は長期閉館中だった。ターラントに関しては、また来る口実が残ったということになる。

サランドラ広場(Nardò)2014年09月23日 00:24

2013年12月23日

Nardòという街は、97年に初めてプーリアを訪問したときから注目しており、近くのLecceに行くたび、何度も訪問計画を立てていた。しかし、交通手段が限られており、なかなか行けなかった街だった。

鉄道のSud-Est線には、街に近いNardò Cittàという駅と、街からかなり離れたNardò Centraleという駅がある。Lecceに宿泊して出かけようとすると、以前のダイヤでは、Centraleには簡単に行けて簡単に帰れるのだけれど、Cittàの方は、乗り換え時の待ち時間が半端ないという感じだった。
夏場の海岸リゾート用のバスも、海岸線から離れたNardòへのアプローチには不便だった。

今回、時刻表を調べてみたところ、ほとんど待ち時間なしで街に近いNardò Cittàに行って帰れることがわかり、訪問決行となった。冬場は鉄道バスが利用しにくくなるもの。またダメだろうと思って一応調べてみることにしたのだが、意外な結果だった。
私の行く手を阻み続けたSud-Est線も、ずいぶんと進化したものである(いや、この路線すらなかったらプーリア旅行は実現できなかったのですが)。

写真はサランドラ広場。訪問した時間帯が悪くて逆光だけれど、こういう表情もバロック的で良かったかな。
この景観は、プーリアならではのもの。あまり知られていない小さな街に、こんな広場がある。
プーリアの魅力は全くもって果てしない。

【後】この串焼きが食べたかったんだよ2014年09月27日 00:28

2013年12月23日

レッチェで夜歩きを楽しみながら見つけたトラットリアで、最高の子羊料理に出会えた。
この串焼きタイプを初めて食べたのは2年ほど前、レッジョ・ディ・カラブリアの店でだった。確か、そのときは2本しか付いておらず、もっと食べたいという欲求を残したまま、レッジョを去ることになった。
http://ike.asablo.jp/blog/2012/04/06/6403086

たぶんレッジョを再び訪れることは当分ないだろうし、同じものにありつけるまでには5~6年かかるのではないかと思っていた。このときも注文時はただ、肉の塊数個を想像しながらAgnello alla grigliaを頼んだだけだった。
しかし、出てきたのは塊状の肉が見えなくなっちゃってるほどの串焼きである。あの2本を食べたいがために、レッジョに行こうと本気で考えていた私の目の前に、思いがけず、大量の串ものが登場! だから真っ先に、何本あるか数えてしまったよ!

この店は、テレビもついてないし、へたくそな画も飾っておらず、私が求める「正しいトラットリア」の基準(テレビとへたくそな画は必需品。これらがないと、しっくりこない)は満たしてはいない。しかも、盛りつけがキレイで、写真の後ろに少し写っている付け合わせの焼き野菜料理は、一つ一つのスライスされた野菜が皿に整然と並べられている。前菜に頼んだモッツァレラチーズも、ハーブやトマトがキレイに飾られていた。どうも「北」の香りがして、しっくりこないところがあった。
それでも、そんな難点を補って余りある串焼き! レッジョの店の3倍も盛ってあるし!

ああヤバイ、これでレッジョには行く理由がなくなってしまった(レッチェには行く理由ができたけどね)。