Massafra2013年12月22日 00:15


またプーリアに行きたいと強く強く念じれば、何かしら口実が見つかるものである。

Massafraは、マテーラやグラヴィナ・イン・プーリアと同じく、Gravinaと呼ばれる谷の上にある街である。そのため、前から気になっていた街だった。
今回、Massafraの城が、フェデリーコ2世の手によるものではないかとの説(理由は塔が八角形だからというものらしい)があると聞き、ついにやっ来るべき口実がみつかった。その真偽はともかく、ロベルト・イル・グィスカルドの甥が建てたノルマン城がこの城の礎だったことは間違いないらしい。

今日は、例によって修復工事中につき、城の見学はできなかった。一部は図書館として利用されているのだが、それも土曜日だったために中に入れず。
ま、こんなもんでしょう。

Massafraは、この地域によrくある「白い街」の風情もあり、Gravinaの独特の景観もあり、なかなか魅力的な街だった。

やっと会えたフェデリーコの胸像2013年12月20日 06:38

 
やっとフェデリーコ2世の胸像に会えた。
場所はバルレッタの市民博物館。その存在は、ずっと前から知っていたのだけれど、なぜか観ることができなかった。

1998年にここに来たときは、展示品の整理のためとかで長期休館中だった(休館中でも観たという人もいるらしいが)。2011年に再チャレンジしたところ、休館日にあたっていてこれまた不発。当然、数日後に再々チャレンジをしようとしていたのだが、風邪をひいてしまって中止。
今回は事前に開館時間も調べ、ようやくこの部屋にたどり着けた。

ま、もうちょっと普通に展示しておいて欲しかった気もするけれど・・・。
しかも、この手前の2つの部屋には、フェデリーコ関係のかなり手の込んだ(かなり予算がつぎ込まれた)展示もあった。
いずれの部屋にも、立方体のディスプレイが真ん中に置かれ、壁にも映像が投影される装置が設えられている。
最初の部屋は、フェデリーコの鷹狩りや鳥類の研究に関する図が次々と映し出されていた(私が見たことのない絵も多数あって感動!)。次の部屋は、十字軍関係で、フェデリーコとイスラム君主のアル・カーミルが並んで描かれた有名な(?)絵などが浮かび上がる。

おそらく、この映像プログラムを最初から最後まで見切った人は、この一ヶ月の間において、私1人だけではないかと思う。
何しろ、アナウンスによる説明も、パネルによる説明も一切なしというマニア向けとしか思えない展示方法である。いくつもの画面には、同時に違う映像が映し出されるため、全部観るのに時間がかかる。
普通は立方体のディスプレイを横目に、ただ通り過ぎるだけだろう(もしかして、バルレッタ市民は郷土史の教育が徹底していて、あれこれ説明を受けなくても、その図像の意味がわかるのだろうか)。

ともあれ、10年越しの宿題をやっと片付けられた。

新誌名創刊! 『月刊住職』2013年12月14日 19:20

昨日の朝日新聞1面、出版物の広告欄で、『月刊住職』という見慣れない雑誌名が目にとまった。新誌名創刊だそうな。

・ スーパー最大手が「永大供養」を売り出した大問題
・ 国有地にされた境内地奪還裁判で寺院が勝訴
・ 初の各宗派調査 教化費の使徒と費用対効果
・ 月命日に壇信徒を訪ねる住職たちに学ぶ功徳

といった内容。寺院に関連する生々しい情報に溢れている。そう、私が愛するあの某業界スーパー月刊誌『寺門興隆』↓と瓜二つなのであった。
http://ike.asablo.jp/blog/2009/04/08/4232536

私のようなファンが増殖した結果、ついにライバル誌が創刊されたのだろうか。一瞬そう思ってしまったが、よくみると「『寺門興隆』改名」とある。出版元も興山舎で同じだった。

Wikipediaには、その事情が書かれている。
もともと1974年に金花舎が『月刊住職』を創刊したが、金花舎の倒産に伴って、興山舎が後継誌である『寺門興隆』を1998年に発刊するようになったらしい。そして、今年の12月から、興山舎が誌名をもとの『月刊住職』に戻したというわけである。
個人的には、『寺門興隆』の方が好きだったのだけれど、40年もの歴史を刻んだ雑誌なのだとしたら、創刊当初の誌名に戻すのも納得できる。

ちなみに、興山舎のHPによると、『最新 寺院の法律実務大辞典』が近刊予定だそうである。これは大歓迎で、発刊されたら購入するつもりだ。

〔後〕友よ 寛大なる者よ2013年05月07日 01:16

 
ヤッファ条約へとつながるアル・カーミルとフェデリーコの信頼関係は、フェデリーコが十字軍に出発する前から築かれていたらしい。
アル・カーミルは、皇帝として十字軍を率いるであろうフェデリーコに関心をもち、ファクルッディーンという外交官をパレルモに送った。フェデリーコが流暢なアラビア語を話し、先進的なイスラム文化を深く理解していることに驚嘆したファクルッディーンは、アル・カーミルに対し、フェデリーコが普通の王様でないことを報告する。
そして、この外交官を通じ、アル・カーミルとフェデリーコとの友情が発展していった。当初は、論理学や天文学といった学問に関する書簡の往復があり(これもアラビア語で行われたらしい)、アル・カーミルからは珍しい動物や天文観測儀がフェデリーコに贈られた。

この事前の書簡のやりとりを通して、フェデリーコは、軍事力によらず、交渉でエルサレムの奪還を実現できると踏んでいたようだ。
アル・カーミルとしては、その頃、エルサレムが仲の悪い弟のアル・ムアッザムの支配下にあったため、むしろ友人であるフェデリーコにエルサレムを占領してもらった方がよいと判断していたとも言われている。
フェデリーコは、それなりの見通しがあったため、身辺警護のための最小限度の軍隊しか現地に連れて行かなかったわけである。その意味では、ヤッファ条約による和平は、相互の利害がたまたま一致したために生まれたものでともいえる。

アル・カーミルもフェデリーコも、「聖地」を特別扱いせず、合理的な損得勘定で動いていたわけで、平和主義の思想に基づいてヤッファ条約を結んだわけではない。おそらくは、この方々が最も忌み嫌ったのは、その種の「主義」がもたらす馬鹿馬鹿しい争いごとだったのではないだろうか。
そんな二人の感覚は、キリスト教世界からもイスラム世界からも理解されなかった。

ちなみに、エルサレムのダビデの塔は、エルサレムの歴史を辿ることのできる博物館になっているけれど、フェデリーコのことには全く触れられていなかった。

イタリア半島部のプーリアで死んだフェデリーコの遺体はパレルモに運ばれ、大聖堂に葬られた。
埋葬された際に彼が身につけていたシャツの袖には、次のような言葉がアラビア語で刺繍されており、これはアル・カーミルへ宛てたものだと言われている。なぜアル・カーミルへのものなのか、その根拠はよくわからないが(友達がほかにはいなかったからだろうか)、本当だとしたら、泣ける話である。

 友よ 寛大なる者よ
 誠実なる者よ 富める者よ
 勝利者よ

〔後〕ヤッファ条約2013年04月27日 01:14

 
今回の「フェデリーコツアー・イスラエル編」で、最も重要な訪問地はヤッファ(Old Yaffo / Tel Aviv)だった。
なお、訪問当日の記事はこちら↓
http://ike.asablo.jp/blog/2012/12/27/6672804

1228年9月、十字軍を率いてアッコンに到着したフェデリーコは、アイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルとの交渉を進めた。
1229年2月11日、ヤッファにおいてフェデリーコとアル・カーミル間で平和条約が結ばれ、2月18日に発効。3月17日にはフェデリーコが聖地エルサレムに入った。

この条約の内容は、エルサレムをキリスト教徒とイスラム教徒とで共同統治しようというもの。
神殿の丘のイスラムの聖地はイスラム教徒が管理することになり、それ以外の旧市街はキリスト教徒側に引き渡されることになった。ただし、10年間の期限付きであった。
十字軍の歴史の中で、ヨーロッパ側がエルサレムの奪還に成功したのは第1回十字軍と、このヤッファ条約によったフェデリーコの十字軍のみだ。

実は、平和条約を結んでエルサレムをヨーロッパ側に、という話はその10年前にもあった。
アル・カーミルは、1219年、本拠地エジプトを攻められた際にもエルサレムとパレスチナを譲ると提案していた。だが、聖戦にこだわったヨーロッパ側がその提案を拒否していた。
結局、戦闘続行となり、反撃に出たアル・カーミルはヨーロッパ側の海軍を壊滅させる。そのうえでアル・カーミルは、ヨーロッパ側に30年の休戦条約を提案した。しかし、またもヨーロッパ側が休戦を拒否。
最終的にはアル・カーミルが完勝してしまったため、そんなこんなで、エルサレムの引き渡しの話は立ち消えになった。

アル・カーミルは、かの有名なクルドの英雄サラディンの甥にあたる。しかし、伯父がイスラム世界をまとめた「聖戦」というイデオロギーには染まってはいなかったようだ。
フェデリーコもそうなのだが、このスルタンも宗教的なこだわりがない聡明な人物だった。この二人の組み合わせだったからこそ実現できた聖地の和平といえるのだろう。

そのせいだろうか、このヤッファ条約は、当時の人々には理解しがたい暴挙にみえたようである。フェデリーコはキリスト教世界の世論から聖戦になってないと非難され、アル・カーミルはイスラム世界の世論から裏切りだと非難された。

まあ現代においても、領土問題に妥協などあってはならないというのが「世論」なのだから、今も昔も変わっていないとも言える。
まして、「もっと強く言う」とか「粘り強く説得する」とかすれば軍事力なしで解決できるのだという、中高生の弁論大会レベルの「世論」が有力な国もあるわけだから、私たちは少しも進歩していないのかも知れない。

写真はエルサレムのコットンマーケット。
ヤッファ条約による10年の和平によって経済活動が活発化し、生まれた市場だそうだ。

〔後〕"SASHIMI"という名の料理2013年04月12日 23:08

(2012年12月26日)

この日の夕食は、まずはイタリアン・レストランでワインを一杯ほど。その店では、とりあえず、つまみ程度の前菜だけにして、その後、ホテル近くのラテン風のバーに移動した。
テルアビブの夜は賑やか。早朝まで開いているバーも数多く、酒飲みにはたまらない都市の一つと言えるのではないかと思う。

まずは"Estrella1906"というスペインのビールを頼む。"Estrella"は私が乗ってるカワサキ製バイクと同じ名前である。前々から飲んでみたいと思っていた銘柄のビールだった。
この店は、テルアビブで流行中のいわゆるスシ・バーとは違うのだが、メニューにはその流行りを取り入れたと思われる興味深い料理がいくつかあった。

というわけで、そんなスペシャル和食メニューの中から、まずは生牡蠣のわさびソース風を食してみた。う~む、わさびはいいとして、そのウズラの卵の卵黄は余計では? という料理だった。
お次は、"SASHIMI"と題された料理である(写真)。
生のマグロにはごま油が塗られ、塩が振ってあった。スライスされたタマネギとの相性は微妙であったが、まあそれなりに楽しめる料理だった。

この種のバーはホテル近くに何軒もあって、どの店も大盛況だった。
ご飲食代の方は結構高め。お酒も、少量しか載ってない料理も、1杯・1皿で1000円前後。お腹いっぱいに食べたり、気持ちよく酔うまで飲むとすると結構な散財になってしまう。そう気安く行けるような店ではないはずなのだが、それでも開店直後を狙わないと、すぐに満席になってしまって、予約なしでは席が確保できないような状態だった。

テルアビブの若者たちは、それほど稼いでいるのか? 年末だけのどんちゃん騒ぎなのか?
一方で、この地点からほんの数十キロしか離れていない場所に貧困があり、そこからロケット弾が飛んで来る・・・酩酊気味の頭の中をいろんな情報が行き交い、混乱する。
そういう意味でも、イスラエルは刺激的な国だった。

〔後〕テルアビブの白いホテルにて2013年03月12日 00:48

(2012年12月26日)

この日はフェデリーコ2世の誕生日。アッコンを出発してテルアビブに入った。
宿泊したのは、写真の小さなホテルで、外観からしてそのデザインは秀逸。テルアビブの白い建築群は、世界遺産に登録されているのだが、この建築物もその一翼を担っているというところではないかと思う。

私は最上階のシングルルームに泊まらせてもらったのだが、内装もなかなかスタイリッシュだった。細部にわたってデザイン化された建築物で、例えば、エレベーターを待っている間にくるりと体を廻してみただけで、楽しい絵画、ユニークな案内板、斬新なデザインの家具の数々が目に入ってくる。
ベランダにはラベンダーその他のハーブが植えられた大きな鉢がある。部屋にはエスプレッソマシーンがあって、そいつで淹れたエスプレッソを、そのベランダのテーブルで飲んじゃったりできる・・・そんなことも知らずに私は予約してしまったが、ニッポンのおっさん一人で泊まるような場所ではなく、滞在中はやや肩身の狭い思いだった。
ホテルのスタッフは、若い美女ばかり。2泊3日の間、私が出会ったフロントのスタッフは、交代制らしくて合計4人もいた。その全員が、驚くほどに美女ばかりなのである。そこまで「美」を追求しなくてもいいでしょ、と言いたくなるほどだった。

街へ出てみると、その世界遺産クラスの建築デザインもさることながら、商店街で目にする洋服、アクセサリー、食器類、雑貨類がどれも秀逸だった。
まあ、私が田舎に住んでいるせいもあるのだが、街全体が「美」に対する強烈なまでのこだわりをもっている気がした。

ホテルの隣のビルには、日本の工芸品を扱う店もあった。
この店、東京でも京都でも滅多にお目にかかれないほどの審美眼をもった店だった。
どれもこれも買いたくなるような器、布、紙、そして日本酒!
ディスプレイとして、おみくじを結びつけた木の枝が飾ってあった。神社で見慣れた風景が、雑貨店のディスプレイになっているというわけである。これをみて、無数のおみくじが結びつけられた枝が、ああ美しいものなのだと、初めて思った。

〔後〕ファイヤー!2013年03月04日 00:33

(2012年12月25日)

アッコンのスークに行ってみると、魚屋が何軒かあった。近海で捕れたと思われる魚介の数々が並べられていて、種類も豊富だし、鮮度もいい感じだった。スークを散策しながら、この日の晩ごはんは、是非とも魚料理を食べておきたいと思った。狙いは、鮮度のよい魚を素材にしたシンプルな焼きものである。

それで、夕刻、ホテルを出て地元の方々で賑わっている店を選び、まずはメニューに書いてあった「本日の魚料理」とは何かを尋ねてみた。すると、「スモークド・サーモン」だというお答え。
昼間、スークではサーモンは見かけなかった。旨そうに見えたあの地物の魚たちはどうなってるんだろうか。私は、店の選択を間違えてしまったのか!

いやいや、Akko最後の晩である。ここで引き下がるわけには行かない。私はサーモンは嫌いだから、別の"grilled sea fish"が食べたいのだと訴え、メニューに書いてない魚料理はないのかと繰り返し尋ねたみた。しかし、私も店のウェイターも、英語は一応理解できるが、決して堪能ではなく、どちらかというと苦手というレベルである。とんちんかんな英会話が繰り広げられる事態となってしまった。

そこで私は、最後の手段に訴えるつもりで、こんなことを言ってみた。
「フィッシュ! ファイヤー!」
ちなみに、そのときの私の両手は、まるで岡本太郎であった(要するにそんな感じ。わからない人はあきらめてください)。

ま、下手くそ同士の英会話なんて、そんなものである。この私の台詞を聞いたウェイターは、ようやく意味がわかったという顔をして、厨房にオーダーを伝えに行ってくれた。

かくして、私のテーブルに届けられたのがコレである。
確かにそれはフィッシュであり、ファイヤーが関係した料理で、とてもおいしい焼き魚料理だった。
そして、ちゃんと「開き」になっていたのが驚きであった。