いじめている私たちへ2006年11月25日 17:08

例えば、イーホームズという会社があった。例の耐震強度偽装事件で、いわゆる"姉歯物件"の建築確認検査をしていた会社である。
突拍子もないことを言うようだが、私たちがこの会社や社長個人を徹底的にイジメた根拠は何だったのだろうか?

偽装を知っていたのにずっと隠していた? それなら、なぜ社長は公表に踏み切ったのだろう。自らの立場や会社を危うくするというのに。
では、偽装を見抜くべき立場にあったのに見抜けなかった落ち度があったのだろうか。
この点、私は、偽装の発見はかなり難しく、彼らの落ち度を非難することはできないと思っている。確かに、そこに偽装があるという前提が与えられていれば、構造計算書という数字の大海原の中にあっても、偽装箇所を見つけ出すことはたやすいと思う。しかし、正しいかも知れないし間違いがあるかも知れないという前提で、偽装を見抜くことはかなり難しかったのではないかと考えている。

私も最初は、杜撰な検査が行われていたのではないかとの印象をもった。けれど、テレビ番組に出演していたイーホームズの実務担当者たちの説明を聞いてみて、見抜くのが困難だったという彼らの弁明には説得力があると思った。スーパーマンのような眼力はなかったものの、普通の人として、やるべきことはやってきたのだ、ということが理解できたからだ。
ところが、他の出演者たちは、「それでは困る」という感情論だけでイーホームズ側の弁明を一蹴してしまった。最初から彼らは「悪」であるという前提で議論をはじめ、どんな合理的な説明があろうとも、決して耳をかさないという態度である。
確かに、悲劇的な事態が起きており、検査機関が見抜けなかったのも困ったことである。しかし、どんなにキチンと仕事をやっていたとしても、避けられない事故というものがある。どうにもできなかったことを責め立てることはできない。みんな困ってるからお前が悪いと決めつけるというのは、野蛮なやり方だ。

むしろ、構造計算の元請けとなっていた設計事務所も、建築確認申請を受けた役所も、みな見抜けなかった中で、彼らが最初に問題を発見し、そしてきちんと公表したということについては、もっと評価してよかったのではなかろうか。まして、つまらない架空増資事件で社長を逮捕したり、会社を潰して従業員を失業させてことに正義があったのだろうか。
とんでもないマンションを買わされてしまった被害者自身が、イーホームズに疑いの目を向け、怒りを顕わにするのは理解できる。しかし、ジャーナリストでございという、立派な肩書きをもった人たちが、被害者本人でもないのに冷静な判断を放棄し、「悪」の懲らしめに走るというのはいかがなものか。

それで、話は学校でのイジメの話に飛ぶが、私が最も厄介だと思っているのは、イジメている側が全く罪悪感をもたず、むしろその行為に正義を見出している状況があるということだ。
もちろん、一口にイジメといっても、様々な状況があるため一概には言えないのだが、少なくともイジメと言われているものの中には、そのようなタイプのものがあるということだけは言っておきたい。つまり、一定の状況下では、イジメる側は一種の"被害者の会"のようなもので、そこでは一種の"加害者"に対する報復が行われており、それが非常に厄介だと思うのである。
むろん、そこにはっきりとした加害行為や被害があるとは限らないし、当然、理不尽な言いがかりであることが多い。給食を食べるのが遅いからA君のおかげで皆の昼休み時間が減る、B君の顔が何となく気持ち悪く皆が不快感を抱いている、成績のよいC君は将来官僚になって庶民をイジメそうだから悪い人である・・・、理由は何でもいい。
被害意識をもった側の集団が、「悪」の懲らしめのために悪口を言い、シカトし、果ては暴力に及ぶわけである。やってる本人たちは正義の執行をしているとしか思っていないから、それがイジメだとは思わない。たぶん彼らは、イジメについてどう思うかと問われれば、「イジメは悪いことだから決してやりません。誰かがやっていたら止めるようにします。」という優等生的答えをすることだろう。しかし、イジメは悪いことであるが、自分のやっていることは正義であるから、それとこれとをイコールで結びつけることができない。
ここでは、「悪いことをしてはダメ」という正義論など通用しない。むしろ、悪を許すという寛容論が必要なのだと思う。

私が思うに、私たちの社会には、"被害者"という記号を獲得した者が権力をふるい始めると、誰も止められないところがある。"被害者"だから多少言葉がきつくなっても致し方ないし、"加害者"をどつくくらいのことは許されると、皆が思ってしまう。そうやって過剰な暴力がいったん肯定されると、さすがに行き過ぎと思っても見て見ぬふりする態度をとるのが得策となり、暴力を止める議論や言論が成立しなくなるのである。
それにジャーナリストやら、果ては"人権派"弁護士までが荷担し、"加害者"イジメを積極的に肯定する発言を繰り返す。彼らは、些細な落ち度も許さず、徹底的な責任追及をするという不寛容さこそが、自らの正義感の物指しと信じているようである。しかし、その不寛容さは、「給食を食べるのが遅いA君」の落ち度を責め立てる不寛容さと全く同じだと私は思う。

今、イジメの問題が新聞でもテレビでも大流行だ。
だが、あのイーホームズの弁明に耳を傾けず、徹底的にイジメ抜いてしまった私たちが(今頃になってこんなブログを書いている私も含めて)、大いに反省することなくして、イジメなど止められるのだろうか。