ノルマン城に泊まって2012年01月13日 01:03

 
10日の晩にはノルマン城に泊まった。
BovinoというFoggiaに近い山上にある古い街。ここにもノルマン期の城があり、一部がレジデンスになっている。

まあここに泊まれたのはよかったとして、急な冷え込み+城ならではの冷たい床と壁+エアコンの不調で寒かった。
おかげで風邪をひいてしまい、その後予定していた旅程をあきらめ、Bariのホテルで静養中。

食事もファストフードをぱっと買って、ホテルにすぐ戻って食べる程度だ。
イタリアで風邪というのは2度目。前回は若さで乗り切ったけれど、今回は完全降伏である。

Foggiaのホテル2012年01月10日 02:40

 
今日はナポリを脱出してFogia泊だ。
駅を出てすぐ、懐かしいプーリアの匂いを感じた。それも冬のプーリアの独特の匂い。他の場所では感じなかったのだから、きっと独特のものなのだろう。

ところで、古いホームページには、Foggiaのホテル環境の悪口を書いたが、今は改装されているところもあって、悪くはない。
今回初めて泊まった駅に近いホテルは、部屋にバスタブもついてる。内装もしゃれていて、モノトーンで決めてある。

ただ、ちょっとやりすぎと思えるのが、左上に写ってるクローゼットだ。
手が届くはずもなく、はしごもない。棒をつかってハンガーをかけるようだ(面倒なので私は使いませんけど)。
この「棒でやればいい」という方法は、つくる前から想定されていたのだろうか。それとも、つくってから考えられたのだろうか。。。

ニカストロの城跡2012年01月09日 02:21


この土日はナポリに滞在しながら普通の観光をしている。でも慣れないせいなのか、相手が猥雑なる街だからなのか、この普通の観光ってのが、やけに疲れる。

ナポリに入る前の金曜日(1月6日)には、Nicastroに一泊して、この街の高台にあるCastello Normanno-Svevo を観に行った。こういうマニアック観光の方がずっと楽しい。

それにしても、探してみると、続々といろんなところにノルマン城がみつかるものだ。いちいち出かけていたらきりがないが、ここニカストロは省略できないと思った。
事前にGoogle Earthでみてみると、廃墟となっていることがわかったからだ。つまり、後の時代の付け足しよりも、ノルマン期の遺構の方がよく観られるのではないかと思った。

事実、行ってみると、適度に壊れていてなかなかいい感じ。
適度というのは、それが大規模な城だったということが一目でわかる偉容を保っていながら、修復して元通りにしようなどという気にはさせない程度にボロボロになっているということだ。

ホテルのあるニカストロの新市街は、ずっと下の方にある。なかなか大きな街で、明るくて住みやすそうな感じ。
ここはラメツィア・テルメ市の一部。ラメツィア・テルメって、なんでここに空港があって、地図の類でも大きな文字で表されるのか、ずっと不思議に思っていたけれど、実際に行ってみて納得できた。

ちなみに、夕食をとったレストランで、不思議なモッツァレッラに出会えた。舌触りはちょっとざらついていて、食感はいまひとつ洗練されていない感じ。でも、味と風味は抜群。最近食が細くなった私でも、さらりと一塊を食べることができた。おかわりしたいくらい。
今度カラブリアを旅するなら、初日にラメツィア・テルメに飛行機で入り、ニカストロに宿をとるというのがいいかも知れない、と思った。

ニコーテラへ2012年01月06日 02:37

 
本日1月5日の目的地はNicoteraというカラブリア州の西海岸線にある街。宿泊地レッジョ・ディ・カラブリアから鉄道で出かけた。

お目当ては、Castello Ruffoである。中世の南イタリアを征服したノルマン人ロベルト・ギスカルドがその基礎を築いたとか。
地図上では鉄道で簡単に行けそうだったため、旅程に組み込んでみた。

とはいえ、列車を降りてからが大変なのがこの手の城巡りの常である。
予想通り、城は、高台にある街の最も高い場所に築かれていた。しかも街は迷路のようで、舗装されていない細い坂道を、右折左折を繰り返しながら登らないといけなかった。
気温も高く、コートもセーターも脱いでひたすら登る。久しぶりに汗だくになる運動になった。

城は現在、小さな博物館になっていて、考古学上の出土品や古い生活用品などが展示されている。
ずっと無言で、私にぴったりとついてまわる変なおじさんが案内人らしかったが、どういうシステムなんだろう。

Nicoteraの駅は無人駅で、切符を売る機械もない。あらかじめレッジョで切符を買っておいてよかった。

困ったのは、切符に日時を打刻する機械もなかったこと。
だが、それは列車に乗ってから車掌にサインしてもらうことで解決。
この機械の故障大国で、正しい列車の乗り方をまたひとつ覚えた。

ヴィボ・ヴァレンティアの城2012年01月05日 00:41

 
ずっと忘れていた。Vibo Valentia(イタリア・カラブリア州)にあるCastello Normanno-Svevoのことを。
数年前、この近くを車で旅行したときに済ませておけばよかったのだが、そのときは、ミレートにたどり着くことを優先した。
たぶん、そのときにアタマの中から排除してしまったのだろう。ガイドブックに載せられているほどの城なのに、ずっとここへ行こうという発想が出てこなかった。
ともあれ、コゼンツァの城を最後に、イタリア半島部のフェデリコ2世の城は行き尽くしたと宣言したことは誤りだったのだ。何という失態!

というわけで、やり直し作戦開始となった。
この2年ほどはずっと機会をうかがっていたのだが、なかなか時間がとれない。そこで夏や春先をあきらめて、この正月休みのどさくさに紛れてのニッポン脱出を画策することにした。
昨年11月、ついに飛行機のチケットも発券され、年休も確保・・・、となった後になって、また思いがけない仕事が発生してしまった。しかし、今更キャンセル料を払うのも何だし、ま、そこんとこは職場の皆様にご容赦いただき、抜けさせてもらうことにした。

かくして、何とか今日のVibo Valentia訪問にこぎ着けた。
今回もいろいろまた、宿題を片づけながらの旅になる。

松本でプーリア料理2011年10月22日 23:34

 
今夜は松本市内のイタリアン・レストランで、プーリア料理をいただいた。
このレストランでは、月毎にイタリア各州のコース料理を企画していて、この10月がプーリア州にあたっている。先週その情報を聞きつけ、さっそく予約。今夜は、久しぶりのプーリア料理にありつけた。

前菜はバーリ風生ハムやレッチェ風(Lecceだと思っていたらrecceだった)の魚料理など。
前菜だけで4種の皿が次々と出てくる。写真はそのうちの1つで、鱈とジャガイモの料理。

第一の皿はもちろん「オレッキエッテ」(私の知っているオレッキエッテとは形が違っていたのだが・・・)。第二の皿は手の込んだ馬肉料理で、かなりおいしかった。

ワインはプーリア産にこだわり、"Primitivo di Manduria"を頼んでみた。
ところが在庫が切れてたらしく(このManduriaにたどり着けないパターンは3度目。かえって懐かしくて嬉しかった)、お店の方が"Primitivo del Salento"(なぜかシチリアのワイナリー製)を持ってきてくれた。

まあ突っ込みどころ満載ではありましたが、ひとつの店でイタリア全土を毎月まわるという大変な企画なのだから、少々の誤差は致し方なし。味は大変おいしかったし、大変満足でありました。

・・・と思いつつも、な~んか違うかな~、やっぱりホンモノのプーリアに行きたいよな~、と思ってしまう(イヤな客ですな)。
でも、そのズレ方それ自体が、一番プーリア風だったのかも。バッチリ、きっちり忠実にやられたら、それはそれでプーリア的じゃありませんから。

かくして、プーリアへの”郷愁”は深まるばかり。
やっぱり行くしかないか!

"The Venetian ~2011年08月25日 23:19

 
~ Macao-Resort-Hotel"というホテルに、先週末泊まってきました。

父が"ヴェネチア"に連れて行ってくれると言うので、パスポート持参で成田空港に駆けつけたところ、香港航空の飛行機に乗せられ、父と二人で、約40人ほどの香港・マカオの団体ツアーに参加することに...。

迂闊にも"ヴェネティアン"を"ヴェネチア"と聞き違え(父が話す栃木の標準語では区別がつかない)、思いがけない旅行をすることになった(笑)。おそらく、こんな誘いがなければ、自分からは一生行くことはなかっただろうと思う。おかげで貴重な体験ができた。

写真は、マカオのザ・ヴェネティアン・ホテルの3階にある巨大ショッピングモールの風景である。「カナル」(グランド・カナルとかいろいろあった)にはゴンドラが浮かべられており、白人の船頭さんたちが「サントゥァ~~~ルゥ・・・(長い間)・・・チィ~アァ~~ァ~、ア゛ッ!!」と歌ってる。
客室はクラシックなイタリア風。広さは70平方メートルもあって、バスケットチームの合宿が一部屋でもできそう。テレビは2つもあるし。窓の外に目をやれば、「サンマルコ広場の鐘楼」(のようなもの)が見える。ほかにもリアルト橋(らしきもの)とドゥカーレ宮殿(と思われるもの)がホテル正面に並んで建っている。
要するに、ヴェネチアという街そのものを、丸ごとコピーしたような巨大施設なのであった。

香港の有名な女人街では、ブランドバッグの模造品、高級時計のコピーやらが氾濫していた。だが、このホテルのコピーは比べようもなく壮大である。唯一無二のヴェネチアの街の何もかもを、カジノで稼いだ圧倒的なカネの力でコピーしようというのだから、その勢いには絶句するほかない。
まあホンモノには及ばないまでも、その造り込みの度合いと巨大さは立派。なかなか楽しめた。
迂闊にも、「本家のヴェネチアにわざわざ行かなくても、ここで済ませばいいかな」なんて、一瞬思ってしまった。カジノ(実はこの複合施設の心臓部はコレ)も気軽に楽しめたし。

楽しむため、カネを稼ぐためなら何でもアリという沸騰するような空気がマカオには溢れていた。
ふと、ニーチェを現代のマカオに連れて行ったら、ツァラストラをちょっとばかり書き直すのではないかと思った。

"Escape from Freedom, NIPPON 2011"2011年07月13日 23:01

東京・新橋あたりの居酒屋では今もなお、エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』("Escape from Freedom, New York")は、常連さんのオジサンさんたちによって、こんな風に説明されているのだろうか。
「自由を与えられた人間は、その自由を持て余して不安にかられ、その自由から逃げ出してしまう。過度に自由を与えることは、かえってその人のためにならない。自由という奴は、実はとても面倒くさいもので、人間はむしろ、束縛されていた方が幸せなのだ・・・。」

酔っぱらいのオジサンたちは、青春時代に夢見た自由な未来(たぶんマルクスとかが約束してくれていた社会)と、遙かなる旅を果たせなかった敗北感を抱えつつ、この書物のタイトルをじっと見つめ、そしてその意味を(中身は読まずに)"想像"する・・・オッサン自らの愛に満ち溢れた助言を理解しようせず、それを理不尽な束縛としか受け止めない娘(「同級生の陽菜ちゃんのお父さんは私たちの気持ちが分かってくれて、ずっと素敵なのに」とか言うしね)への義憤を胸に、『自由からの逃走』について語り、私たちオジサンは二次会のさらなる深みへと嵌って行くのである。

しかし、フロム自身は、そのような「自由なんて、所詮はそんなもの」というニヒリズムを否定するために、この書物を書いたはずだった。
中世的な束縛(自らが生きるべき道筋が明確に強制されていた)から解放された近代人は、生きるための指標を失い、常に何をなすべきかについて悩み戸惑い、不安に苛まれることになったというのがフロムの分析だった。だから、そのかつては当たり前だった束縛と強制によって与えられていた安堵感を示されると、人々はそれに飛びつき、たやすく自由を放り投げてしまう。とくに危機的な状況に直面した人々は、その安堵感を追求し、ナチズムさえも肯定てしまう。そうした危うさをフロムは生々しく描いてみせたわけである。

それで、私たちオジサンは、「ああやっぱりね。だからこそ若者には規律と強制が必要なんだ。だから若者よ、息子よ、娘よ、部下たちよ! 幸せになりたいのなら私の言うことを聞きなさい!」と叫びたがる。けれど、フロム自身の問題意識は、その真逆だったと言える。

フロムは、ナチスの迫害を逃れてアメリカへと渡り、この書物を書いた。
ワイマール憲法という最も進んだ理想を掲げた文明国ドイツにおいて、なぜナチスは生まれ、人々の熱狂的な支持を得るに至ったのか、そのメカニズムを世に示し、ナチスによる悲劇の「再発防止」を願って、『自由からの逃走』という警告を発した・・・と私は理解しているのだが。

フロムの警告が、この2011年の危機的状況にあるニッポンにおいて、再現されることがないよう願うばかりである。
しかし、この手の分野を専門にしておられる先生方も、自由についてあれこれと語ることを専門にされている先生方も、何やらもっと手の込んだ難解な議論をするのに忙しく、結局は政治家や役人の責任の問題だという理屈をひねり出すことに頭がいっぱいだ。この問題の核心が実は、普通のオジサンの個々の考え方にかかっているのだということを、それが有権者一人一人の責任の問題なのだということを、誰も言おうとしない。市民が国民が生活者が自由を破壊するのだ、という恐怖について、誰も語ろうとはしない。

テレビや新聞などのマスメディアは、今や完全に、そのフロムが警告した「逃走」を始めてしまっている。その正義感ゆえに全速力で自由を蹴散らし、大きく腕を振りながら、自由を抹殺しようとする権力者と軍隊に声援を送っている。昭和の戦前のメディアがそうだったように・・・としか、私には思えない。

だから、ちょっとだけ”気の利いたオジサン”になるために、そのフロムの真意を若者たちに説教してみませんか、というのが私の提案である(とりあえず、言うことを聞かない息子や娘のことはさておき)。
「"普通のオジサン"は『自由からの逃走』を誤解しているけれど、本当はこうなんだぜ!」と言えるオジサンを目指してみませんか。