〔後〕最初に食べたモノは2013年02月02日 02:26

(2012年12月22日)

イスラエル入りして最初に私が口にした食べ物は、なぜか写真に写ってる「あられ(ピーナッツ入り)」であった。
これは自分で持参したものではない。ホテルのカフェテラスで夕食に生ビールを頼んだら、こんな醤油味の「お通し」が付いて来たのだった。
この写真だけだと、日本の居酒屋にも見えなくないが、紙製ランチョンマットに"Jerusalem"と印刷されているように、ここは歴としたエルサレムのお店なのである。

イスラエル到着後いきなりの「あられ」の出現に、最初はちょっと面食らった。
なぜ、はるばる日本からやってきた客に醤油味を出すのか。もし、食べ慣れたものを出してあげるのが客へのおもてなしだと思っているのだとしたら、それは大間違じゃないのかい?
とか、まあ、いろいろ考えながらも、おいしかったので食べちゃいましたけどね。

実は、あられの類は、イスラエルでもポピュラーな食べ物のようで、後でスーパーに行ってみたら、あられが普通に売られていた。
よく考えてみれば、むしろ日本の方が世界各地の料理や食材、輸入食品に溢れているわけで、あられくらいで、何も面食らうこともないのだが。
そうしてみると、普段行き慣れているイタリアが、食に関しては極端に保守的なのかもしれない。

イスラエルの料理は、世界各地で暮らしていたユダヤ人が持ち込んだ様々な料理がアレンジされているとも言われている。様々な民族と宗教が入り乱れたモザイク国家だけあって、食文化は多彩だ。
一部には、なんだこりゃ??という日本食らしきものもあったけれど、イスラエルでの食事は、全体的に楽しくて、おいしくて、安い、という印象だった。

〔後〕岩のドームへ2013年02月07日 00:33

(2012年12月23日)

さて、聖地エルサレムの意味は、私のようなフェデリチャーノにとっては特別なもの。
普通の意味での聖地エルサレムは、ユダヤ教の神殿跡とされる「嘆きの壁」、キリストが埋葬されたとされる「聖墳墓教会」、ムハンマドが昇天したとされる「岩のドーム」の存在によって聖なる意味づけがなされている。
しかし、フェデリチャーノにとっては、そんな宗教色たっぷりの場所に、あの宗教嫌いのフェデリーコ2世が赴いたことにこそ意味がある。

フェデリーコ2世は、1229年、エルサレム王として入城した。
十字軍と聖戦の時代だったけれど、ヤッファ条約によって一時的な平和がエルサレムにもたらされ、彼はこの聖地に王として赴くことができたのである。
その際の有名なエピソードが残されている。

ムスリムに礼拝を呼びかけるいつものアザーンが聞こえてこないことを訝ったフェデリーコは、なぜ夕べはアザーンが聞こえなかったのかとイスラム側の法官に尋ねた。
その法官は、キリスト教側の君主の来訪に配慮し、アザーンを止めたのだと説明した。するとフェデリーコは「あなた方は、私のために自分たちのやり方を変える必要はない。それでは、あなた方がヨーロッパに来たとき、私は教会の鐘を鳴らすなと命じなければならないではないか。」と言った。一説によると彼は、「あなた方の祈りの声が聞けることを楽しみにしていた」とも言ったそうだ。
そして、エルサレムでは、いつも通りのアザーンが聞かれるようになった。

また、フェデリーコは、神殿の丘(岩のドーム、アル・アクサー寺院がある場所)にも赴き、その際、聖書を携えたままイスラムの聖域に踏み入れようとしたキリスト教神父を叱責したとも伝えられている。
聖書を普通に持っていただけで叱られちゃった神父様が気の毒だが、フェデリーコには、そうしたやや過激な言動をエルサレム市民にアピールし、ムスリムにも王として認めてもらおうという狙いがあったのかも知れない。

ともかく、フェデリーコはそういう人だったらしい。

〔後〕クリスマス・イブのディナー2013年02月09日 11:01

(2012年12月24日)

アッコン(Akko)という街は、十字軍時代には重要な軍事拠点となっていて、ヨーロッパ側の騎士団が支配していた。街の主な観光資源である「十字軍の街」やテンプル騎士団のトンネルなどは当時のもの。
フェデリーコ2世も、自身による十字軍の最初の活動拠点として選んだのは、この街だった。
もっとも、当時のフェデリーコは破門されていたため、法王庁からすると「無認可十字軍」扱いだったようだが。

実際に行ってみるまでは、そんな十字軍の街というイメージが強く、クリスマスだからきっと、綺麗な飾り付けなんかが観られるに違いないと想像していた。

しかし、よく考えてみれば、1291年の「アッコン陥落」でキリスト教勢力は一掃されている。「十字軍の街」は遺跡でしかなく、現在のAkko旧市街に住む人々のほとんどはアラブ人。中にはキリスト教徒のアラブ人もいるらしいけれど、基本的にムスリムが圧倒的に多い。

私の頭の中では、700年以上前の出来事と現代とが、ごちゃ混ぜになっていたようだ。
したがって、旧市街の飲食店やホテルの中に、小さなクリスマスツリーが控えめに飾られているのは観たけれど、それ以外に、私が期待していたクリスマスらしき気配というものは、一切なし。

この日のクリスマス・イブのディナーは、ホテル近くの庶民的な店で。
シュワルマ(薄切り肉を重ねて焼き、焼けたところをそぎ落としたもの。トルコ料理のケバブと同じ)を頼んだところ、まずはこの写真の2皿がテーブルにドン・ドンと置かれた。
ピタパンの皿と、キュウリと唐辛子のピクルス、オリーブ、トマト、そして生タマネギが載った皿。この生タマネギ、水分が多くて辛くなかった。何か処理されているんだろうか。

この2皿だけでお腹が一杯になりそうな量だったが、後から出てきたメインのシュワルマの皿(写真に写ってませんが)にも、イスラエル式サラダとポテトフライが大量に載っていた。とにかく野菜がたくさん採れるシステムだった。
しかも、席料とかサービス料とかいう追加料金は一切なく、メニューに書いてあったシュワルマのお値段だけ払えばいい。
こんな店がご近所にあったら毎日通ってもいい、と思わせるいい店だった。

〔後〕フェデリーコが観た風景?2013年02月23日 00:17

(2012年12月25日)

1228年、フェデリーコ2世が率いた第6回十字軍の最初の行程は以下のとおり。

6月28日 ブリンディジ(南イタリア)の港から十字軍出発。
9月3日 ファマゴスタ(キプロス島)にて乗船。
9月7日 アッコン(Akko)到着。

フェデリーコは船でアッコンに入り、ここで11月までの間滞在したようだ。その間、彼はエジプトのファティマ朝のスルタン、アル・カーミルとの交渉を行っていた。
このとき、フェデリーコがヨーロッパから連れてきたのは、身辺警護のための最低限の兵士のみで、軍事力は現地のキリスト教系の騎士団頼み。その騎士団が本拠地としていたのがアッコンだった。
当時の騎士団が築いた街というか要塞は、現在、「十字軍の街」という観光スポットになっている。
当然、フェデリーコもその「十字軍の街」に滞在していたに違いなく、かくして私は、この街Akkoへとやってきたわけである。

フェデリーコは、イタリアへ帰る際にも、アッコンの港から船で出発している。
そうなると、(自称)フェデリチャーノ・ニッポン代表である私としては、ここで船に乗らずして帰るわけには行かない。
幸い、冬場でも観光船が運航されていた。しかも業者さんもいろいろ。
私は、一番地味な感じの船でありながら、サングラスをかけ、派手な衣装を身にまとった黒人が客引きをやっている船を選んだ(なぜだか不思議と、彼らが真剣に商売をやってる気がした)。
どの観光船もアラブ風の陽気な音楽を鳴らしていたけれど、乗客は私を含めて外国人3名ほどだったし、その客引きに頼んで、音楽は止めてもらった。

さて、海から現在のアッコンを眺めてみると、緑色のモスクのドームやミナレットが目立つ。あらためて、この街がアラブ人の街であり、イスラームの街であることがわかる。
ちなみに、左手に時計塔が見えるが、これはキリスト教会のものではなく、純粋な時計塔である。

フェデリーコが観た風景、つまりは騎士団が支配していた当時の風景とは明らかに違っているわけだが、これはこれで、フェデリーコ的な風景ともいえる。
Akko旧市街は、ユダヤ国家といわれるイスラエルの中にありながら、アラブ人の街、イスラームの街であり続けている。
今回の旅行で私が訪れたイスラーム関係の有名観光地は「ムスリム以外は中に入れません」という所ばかりで、外から眺めることしかできなかった。しかし、ここアッコンの有名モスク、アル・ジャッザール・モスクは開放的だ。入場料さえ払えば、異教徒でも中に入れる。

ふと思ったのは、フェデリーコが暮らしていた当時のパレルモ(シチリア島)は、(時代はかなり違っているけれど)こんな空気感があったのではないか、ということ。
かつて十字軍とジハードの最前線であったこの街だが、他民族と多宗教とが入り乱れつつ調和する地中海世界の伝統、つまりはフェデリーコが愛した地中海魂を、静かに受け継いでいる気がした。