"Escape from Freedom, NIPPON 2011"2011年07月13日 23:01

東京・新橋あたりの居酒屋では今もなお、エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』("Escape from Freedom, New York")は、常連さんのオジサンさんたちによって、こんな風に説明されているのだろうか。
「自由を与えられた人間は、その自由を持て余して不安にかられ、その自由から逃げ出してしまう。過度に自由を与えることは、かえってその人のためにならない。自由という奴は、実はとても面倒くさいもので、人間はむしろ、束縛されていた方が幸せなのだ・・・。」

酔っぱらいのオジサンたちは、青春時代に夢見た自由な未来(たぶんマルクスとかが約束してくれていた社会)と、遙かなる旅を果たせなかった敗北感を抱えつつ、この書物のタイトルをじっと見つめ、そしてその意味を(中身は読まずに)"想像"する・・・オッサン自らの愛に満ち溢れた助言を理解しようせず、それを理不尽な束縛としか受け止めない娘(「同級生の陽菜ちゃんのお父さんは私たちの気持ちが分かってくれて、ずっと素敵なのに」とか言うしね)への義憤を胸に、『自由からの逃走』について語り、私たちオジサンは二次会のさらなる深みへと嵌って行くのである。

しかし、フロム自身は、そのような「自由なんて、所詮はそんなもの」というニヒリズムを否定するために、この書物を書いたはずだった。
中世的な束縛(自らが生きるべき道筋が明確に強制されていた)から解放された近代人は、生きるための指標を失い、常に何をなすべきかについて悩み戸惑い、不安に苛まれることになったというのがフロムの分析だった。だから、そのかつては当たり前だった束縛と強制によって与えられていた安堵感を示されると、人々はそれに飛びつき、たやすく自由を放り投げてしまう。とくに危機的な状況に直面した人々は、その安堵感を追求し、ナチズムさえも肯定てしまう。そうした危うさをフロムは生々しく描いてみせたわけである。

それで、私たちオジサンは、「ああやっぱりね。だからこそ若者には規律と強制が必要なんだ。だから若者よ、息子よ、娘よ、部下たちよ! 幸せになりたいのなら私の言うことを聞きなさい!」と叫びたがる。けれど、フロム自身の問題意識は、その真逆だったと言える。

フロムは、ナチスの迫害を逃れてアメリカへと渡り、この書物を書いた。
ワイマール憲法という最も進んだ理想を掲げた文明国ドイツにおいて、なぜナチスは生まれ、人々の熱狂的な支持を得るに至ったのか、そのメカニズムを世に示し、ナチスによる悲劇の「再発防止」を願って、『自由からの逃走』という警告を発した・・・と私は理解しているのだが。

フロムの警告が、この2011年の危機的状況にあるニッポンにおいて、再現されることがないよう願うばかりである。
しかし、この手の分野を専門にしておられる先生方も、自由についてあれこれと語ることを専門にされている先生方も、何やらもっと手の込んだ難解な議論をするのに忙しく、結局は政治家や役人の責任の問題だという理屈をひねり出すことに頭がいっぱいだ。この問題の核心が実は、普通のオジサンの個々の考え方にかかっているのだということを、それが有権者一人一人の責任の問題なのだということを、誰も言おうとしない。市民が国民が生活者が自由を破壊するのだ、という恐怖について、誰も語ろうとはしない。

テレビや新聞などのマスメディアは、今や完全に、そのフロムが警告した「逃走」を始めてしまっている。その正義感ゆえに全速力で自由を蹴散らし、大きく腕を振りながら、自由を抹殺しようとする権力者と軍隊に声援を送っている。昭和の戦前のメディアがそうだったように・・・としか、私には思えない。

だから、ちょっとだけ”気の利いたオジサン”になるために、そのフロムの真意を若者たちに説教してみませんか、というのが私の提案である(とりあえず、言うことを聞かない息子や娘のことはさておき)。
「"普通のオジサン"は『自由からの逃走』を誤解しているけれど、本当はこうなんだぜ!」と言えるオジサンを目指してみませんか。

「市民」から人へ。人から市民へ。2009年05月21日 02:24

今日からいよいよ裁判員制度が実施される。せっかくなので、ここで一発言っておきたいと思う。
この制度については、「市民」が司法に参加する制度という言い方があるけれど、もうその言い方はやめにして、ちゃんと現実に即した議論を始めようじゃないですか、と。

そもそも私たちは、「市民」という言葉を、特別な意味を込めて使っていることが多い。善良であり、常識を備えており、公平な判断ができ、庶民的であって、毅然として権力を批判できる・・・といった肯定的な意味を込めている。
だから、裁判員制度についての議論が始まったとき、これに反対したのは一部の専門家ぐらいのものだった。だいたい、「市民」が司法に参加するのだから、良い制度だとしか言いようがなかったわけである。
今になって振り返ってみると、このところ議論されている問題点をいち早く的確に指摘していたのは当時の反対派だったのだが、「市民」の敵である法務省をはじめとする反対派の意見は、あまり顧みられることはなかった。

私は、裁判員制度が始まっても、事実認定の精度は、良くもならないし悪くもならないと思っている。
おそらく、冤罪がなくなって格段に良くなることもないし、逆に、冤罪が増えることもないだろう。素人でも6人集まれば、裁判官並みの精度は保たれるだろうし、一方で、裁判員も同じ人間である以上、裁判官と同じ程度には間違えるはず。
しかし、「市民」が参加するという文脈で議論が始まると、そういう冷めた予想は全く相手にされなくなる。「非市民」である裁判官は、常識がなく、不公平な判断をして間違えたかも知れないが、「市民」は全く間違えないか、あまり間違えないという前提で議論が進んでしまう。なぜなら、「市民」であれば常識に基づいて公平な判断を下すはずだから・・・と。
昨年、今さらのように延期した方がよいとか言い出した弁護士会も、もともとは推進派の急先鋒だった。
裁判官が相手では、被告人の言い分をまともに聞いてくれないし、弁護側が証人申請しても採用してくれない。けれど、「市民」が参加してくれれば、被告人の置かれてきた境遇とか、やりきれない気持ちとか、きっと庶民目線で理解してくれるに違いないという、楽観的な思惑があったように思う。

ところが、制度導入が決まって以来、こういった「市民」像を念頭に置いて議論を進めてきた推進派が(とくに弁護士会あたりが)、おそらくは一番驚いたであろう現象が起きてしまった。
「市民」は弱い者の味方であるから、権力者である裁判官とは違って弱者の気持ちを理解できるという前提がある。推進派が期待したのは、国家権力によって身柄を拘束され、弱い立場に立つことになった被告人への理解だったはずだ。しかし、世間の常識からすれば、被告人は悪い弱者でしかない。本当の弱者は被害者なのであって、結局、被害者側の希望を叶えてあげるのが「市民感覚」と理解されてしまった。
それに、人を死なせておきながら言い訳をするのは反省していない証拠であり、まして否認したり黙秘して真相を語らないのは卑怯だ、と評価するのが「市民の常識」である。
この「市民感覚」と「市民の常識」に沿ったかたちで、凄まじい勢いで厳罰化が進んだのがこの数年間の動きだった。
裁判員制度の下で「市民」が判断すれば、無期懲役は死刑になったはずといった論評が巻き起こり、今や日本は、世界に希な死刑大国になり、諸外国から注意されるところまで行ってしまった。
それだけではなく、飲酒運転で死亡事故を起こしたら、7年程度の懲役刑とは非常識であり、25年でも足りないというのが「市民の常識」になった。例えば、故意に人を傷つけ、その相手がたまたま死んでしまったとすると傷害致死罪になるが、その場合の量刑の相場は、2~3年の懲役である。5年を超えることはほとんどない。つまり、過ちで人を死なせたに過ぎない人に対する刑罰の相場が、一気に、意図的に人を傷つけ、そのはずみで人を死なせた乱暴者に対する刑罰の何倍にもなったわけである(いや「市民感覚」からすれば、傷害致死罪の量刑が軽すぎるということになるのか)。
最近の日本が死刑大国になってしまったのは、裁判員制度のせいだけではないだろう。けれど、ここ数年、ほとんどのマスメディアが「もっと死刑を」「もっと厳罰を」と金切り声を上げ、この制度にかこつけた厳罰論を主張し続けてきたのは事実だ。
厳罰化と必罰化とは紙一重でしかない。厳罰化は必罰化を生み、そして、必罰化は冤罪を生む。
いまだに「市民」の文脈で議論したがる人は、「市民が無罪を主張しているのに、裁判官が死刑の結論を市民に押しつける」ような事態を心配しているようだが、ここでメディアが表現する「市民感覚」がその通りだとすると、その逆の事態を心配しなければならなくなったわけである。
マスメディアが「厳罰化の流れ」と、まるで他人事のように表現するこの現象は、私には恐怖そのものだった。
これは「流れ」だから、誰にも責任がなく、誰も反省しないということなのだろう。そんな流れに乗せられて、生きた人間が次々と死刑台に送られる。そんな恐るべき国になってしまった。

しかし、実際に制度のスタートが秒読み段階に入ると、多少はこの恐怖感も和らぐようになった。
なぜかというと、普通の人を念頭に置いた、現実的な議論が復活するようになったからである。
世論調査をやってみると、参加したくないという人が8割ほどいることがわかってきた。司法を民主化するために積極的に参加したいと考えるのが「市民」のはずなのだが、これはなんとも「市民」らしくない答えである。
次いで、自分が死刑の判断をするのは辛いという意見が、かなり広がりをみせるようになってきた。ちょっと前までは、殺人者に無期懲役とはとんでもない話で、死刑を求めるのが「市民感覚」とされていたはずである。「市民」なら、これまでの判例にとらわれた頭の硬い裁判官の主張を跳ね返し、堂々と死刑を主張し、正義を実現するはずだった。正義の味方たる「市民」にしては、なんとも頼りない感じになってきてしまったわけである。
新聞の社説などを注意深く読んでみると、「市民」という言葉と「人」という言葉が使い分けられていることがわかる。参加したくない人は「人」であり、興味すらない人は当然「人」として表現される。一方、これで司法を変えられるとか立派な意見を述べる人は「市民」とされる。しかし、世論調査の結果は、「市民」よりもただの「人」の方が圧倒的に多いことを示している。
こうした多数派の傾向を認識したマスメディアは、かつては一切無視するか否定してきた制度の問題点の発掘に励むようになった。おかげで、現実的な論点が日の目を見るようになり、多少はまともな議論が聞けるようになってきたというわけである。
結局、「市民」という言葉で議論している間には見えなかった現実が、ようやく皆に見えるようになったということではないだろうか。
私たちは「市民」ではなく、ただの普通の人でしかなかったのである。裁判官に向かって、お前たちは「市民的」でないから選手交代だと、外野席から野次を飛ばすのは簡単だけれど、実は今、私たちが立とうとしていたのは、玉が飛んでくるグラウンドの真直中だったのだ。

だから本当は、普通の人が参加するという現実的で具体的な前提の上で制度の問題点を考え、あらかじめ制度への理解を広めておくことが必要だったのだと思う。
例えば、こんな問題を皆で真剣に考える必要があったと私は思っている。もしかすると真犯人かも知れないが、証拠は十分とは言えないとき、あなたならどうするか。
正解は無罪であり、金賞がもらえる模範解答は「裁判官が有罪と言っても無罪を主張する」ということになるが、これが実は、死刑判決を出すより難しい。誰がみても無実とわかるような事件は、そもそも起訴されない。それなりに証拠が揃っているから起訴されるのだから。
そのため、無罪でよいと思っても、もしかすると真犯人かも知れないという気持ちが必ず残るはず。世間は死刑を期待しているし、もし無罪という判断が間違っていたら被害者に申し訳ない。かといって、もし無実の人を死刑にしてしまったら・・・さてどうする?
しかし、「市民」なら的確に真実を見極めることができるという前提の下では、こういう問題はそもそも起こらないことになっている。誰もが正解できる模範解答は用意されているものの、その結論を出す過程で生じる悩みを共有し、覚悟を決めるための議論が、ほとんどなされてこなかった。

とはいえ、前にも言ったように、問題は多々あっても、裁判の中身が悪くなることはないと思う。
私は当初、どちらかというと反対だった。けれど、半年前くらいから世間が騒がしくなり、問題ありの声が大きくなるにつれ、ひねくれ者の私は、大賛成に転じている。
実は、この制度には、あまり議論されていなかったところに、なかなか味のある仕掛けが(こっそりと)してある。制度についての理解が進むにつれて、私もあまり心配しなくてもよいと思うようになった。
それに、このところの現実的な議論は、参加を嫌がる普通の人に対して、責任ある市民としての覚悟を促すものになってきている。これなら、やった方がいいし、ちゃんと続くようにして欲しい。
一つ裁判官に注文を付けるとすれば、難しい事件にあたってしまったなら、「証拠が十分でないと思うなら、勇気をもって無罪と言ってください」と、悩める裁判員を励まして欲しいと思う。同じ悩みをもつ仲間として裁判員を迎え、経験豊富なプロの立場からアドバイスして欲しいのである。
そしておそらくは、その悩みを裁判官とともに乗り越え、覚悟をもって結論を出した裁判員だけが、まさに「 」でくくる必要のない市民になれるのだと私は思う。

私は今こう思っている。
この制度は、「市民」が参加するからよいのではない。人を、本物の市民にするからよい制度なのだ。

浄化のための死2008年05月13日 19:19

今月9日の国連人権理事会で、日本の人権状況が審査された際、13カ国から死刑執行停止の要求がなされたそうだ。昨日の新聞にもその記事が小さく載っていた。

最近では、死刑大国アメリカでも、州レベルで死刑廃止への動きがあるし(州裁判所の違憲判決、ニュージャージー州での廃止など)、全体的に執行数が減少している。もう一つの大国と言えば中国だが、こちらもオリンピックを間近にひかえ、執行数は激減していると聞く。日本とは桁が違うとはいえ、減少傾向にあることは確かだ。
その一方で、このところ日本では、死刑判決数、執行数がいずれも増加しているうえに、先日、差戻審で判決があった光市母子殺害事件のように、18歳の少年でも死刑ありというかたちで、適用対象が拡大している。
今回の国連人権理事会での審査では、こうした日本での死刑拡大路線について、強い懸念が各国から表明されたということらしい。

日本政府側は「世論の支持を受けている」と反論したそうだが、確かに、近年の拡大路線は、世論に沿ったものだと思う。光市母子殺害事件では、第1審、控訴審での無期懲役の判決が世論による厳しい非難の対象となった。この事件ではとくに、世論に沿ったかたちで先日の死刑判決が出たという印象が強い。

それで、その世論なのだが、被害者遺族が死刑を求めるのは当然の心情だとしても、遺族以外の、全く応報する立場にない人々が、こぞって死刑を求めるのはなぜだろうか。
これは私たち日本人がもっている中世的な心性と関係しているのではないかと、私は考えている。ここでの中世的な心性というのは、呪術的なものの考え方と言ってもいい。犯罪を穢れと受け止め、処刑を払い清めの儀式と受け止める古い意識を、現代の私たちはなお、強固に持ち続けているのではないか、ということだ。
人殺しといった忌むべき事態が起きてしまうと、私たちは、容易には消すことのできない穢れが生じたものと受け止める。では、この殺人行為によって生まれた穢れは、どうしたら払い清めることができるのだろうか。おそらくは、その問に対する私たちの唯一の答えが、死刑なのである。

一人でも人を殺した以上、死刑になって当たり前と考える人は多い。その至極当然の結論のために、いちいち理由を説明し、申し開きをする必要などないと考える人も多い。しかし、その「当たり前」を支えているのが、こうした中世的心性なのではないかと、私は思っている。それだけで説明するのは無理とは思うが、私たちの根っ子にあるその心性が、死刑を支えている一つの要因だという確信はある。
そして、この中世的心性を前にしては、ヨーロッパ流の合理的な議論など、ほとんど役に立たないことに注意する必要があると思っている。

例えば、「死刑を廃止したら犯罪者が増える」と主張する人に向かって、死刑を廃止しても、犯罪は増えなかったという廃止国の統計を示したところで、何の説得力も持たない。私たちが心の底で懸念しているのは、犯罪が増えることではなく、穢れが浄化されない事態を恐れているのだから。
また、誤判の問題は死刑廃止論の大きな柱だが、払い清めの儀式においては、処刑される人物が真犯人かどうかはあまり関係がない。人柱のような生贄の例を想像してみればわかると思うが、人の死をもって払い清めること自体に意義があるとすれば、真犯人を正しく処刑すべきことは二次的な問題になってしまう。
冤罪を見抜けなかった裁判官を、私たちは単純な論理で非難するけれど、事はそれほど簡単ではない。無罪の疑いもあるけれど有罪の疑いもある被告人(全く疑いのない人はそもそも捕まらない)に対して、無罪判決を出すためには、実はかなりの勇気と決断力を必要とする。自らの中世的心性と激しく格闘しなければならないからだ。無罪判決とは、犯罪の浄化を放棄することであって、そんな事態を招くくらいなら、ともかく、その少しでも有罪の疑いのある被告人を処刑する道を、人は選んでしまうものなのだ。

ここで話は飛ぶけれど、この死に穢れを浄化する意味を見出す心性は、自殺とも関連しているのではないかと思う。
借金を苦にして首をつる人は多い。しかし、払えない借金など、払わなければいいだけのこと。今どきの大手サラ金業者は、悪辣な取り立てをほとんどしなくなった。それでも人は、借金を苦にして自ら死を選ぶ。
おそらくは、自らの死をもって債務を「払う」ためだろう。取り立てへの恐怖が彼らを死に追いやるのではない。債務という自分にまとわりついた穢れが、彼らを押しつぶしてしまうのである。自殺の場面でも、借金にまみれ、穢れた我が身を「払い」清めるという中世的心性が働いているのではないかと思う。
このことは、借金苦のケースだけに当てはまるわけではない。不幸、不運にまみれた自分でも、家族やカイシャに迷惑をかけた自分でも、死が自らを浄化してくれるのなら、誰もが美しく死ねるということだ。
だから、命を大切にと言ってみたところで、そんな説教など通用しないのが私たちの社会なのである。日本での自殺率が異常に高いのは、世界的にみて、私たちが特別に不幸な民族だからではない。
私はこう思っている。死に聖なる意味(祓い清め)を与えてしまう社会だからではないのか、と。

近代以降のヨーロッパでは、この種の中世的心性が「整理」されたと言われている。
歴史的にみれば、手の込んだ残虐な処刑方法や強烈な身分差別(賤視)を得意としたのは彼らの方だが、今や人道主義の旗手として、死刑や差別を非常に問題視している。
それに比べると、移民の国であるアメリカは、中世的心性を残した社会だと言われている。武器を個人が保有することが当然の権利とみなされ、一種の私闘が肯定されているのはその一例だ。
中世を整理できたヨーロッパ各国が死刑廃止に突き進む一方で、中世的なアメリカや日本で死刑が当然の制度とされているのは、偶然の一致ではないと思う。

私は、中世的心性を整理できたヨーロッパの方が特異であって、そうでない方が世界の普通の人々なのだとは思う。私たちの考え方があまりに普通であるために、直しようがないのではないかとも思う。私自身は直した方がいいとは思うものの、皆でヨーロッパ流の考え方を共有するのは難しいだろうし、もしそうなってしまったら、それはそれで気持ち悪いかも知れない。
それだけに、実を言うと、死刑や自殺といった悲劇を止めるために、何をすればいいのか、さっぱり分からない。

ただ、それでも言っておかなくちゃと思うのは、自殺はやめなさいと少年に説教しつつ、少年にも死刑を、と叫んでしまったら何にもならないということ。少年にも死刑を、と叫んでしまったら、霊感商法の被害など食い止められないということ。
そして、少年にも死刑を、と叫ぶあなたの心の中に、あなたが激しく非難する役所や大企業の「古い体質」と全く同じものが、きっと潜んでいるに違いないということ。

古い体質を直したいのなら、まずは自分の中の古い体質を見つめて欲しい。そう言っておきたい。
とくに、これから裁判員になる方々に向かって、あれこれと説教したい面々には。

桃太郎 9.112007年09月12日 19:54


 先週、NHKの教育番組で、桃太郎の物語を扱った放送があった(おはなしのくに『ももたろう』の再放送)。物語の朗読にあわせ、絵本調の絵画の映像が流れる構成の番組で、朗読はフリップフラップの2人だった。
 まあ大袈裟に考えるほどのことではなのかも知れないが、この番組での桃太郎の物語には、ちょっとした味付けがしてあって、それが私には、かなり気になってしまった。それは、次のようなストーリーが加えられていたこと。何だかハリウッドのアクション映画みたいだった。

 幼い桃太郎は、おじいさんとおばあさんが鬼に痛めつけられるのを目の当たりにし、「生まれてはじめて『怒り(いかり)』を感じ」る。以来、鬼を懲らしめなければと、桃太郎は「トレーニング」を始める。そうして逞しく育った桃太郎は、犬猿雉を伴って鬼ヶ島に到達。鬼ヶ島の入り口には、真っ黒で大きな門があって、桃太郎の行く手を阻むのだった。

 桃太郎の物語の起源は古く、かなり古いだけに、人々の考え方の変化に伴って物語も変容し続けてきた。
 最も古い物語の筋では、桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返り、ちゃんと妊娠できるようになって桃太郎が生まれたことになっていたとか。実はこの物語、まさにエッチな桃色物語だったのである。
 そうした怪しげな出生の秘密をもつ桃太郎自身も、もともとは、ちょっとワルでエッチな兄貴として描かれていた。鬼ヶ島で略奪してきた金品でもって、遊女買いに出かけたりしていたのである。

 品行方正で硬派なイメージの桃太郎像が世に広まったのは、明治時代に教材として扱われるようになったことが大きく影響しているとか。こうして桃太郎の物語は、海の向こうの「鬼」とか鬼畜ナントカをやっつけるという、日本一の正義の物語へと変貌していったらしい。

 だから、そういった桃太郎の変貌に胡散臭さを読み取った芥川龍之介なんかは、この物語を皮肉った作品を書いたりしている。
 龍之介版の桃太郎では、鬼が桃太郎に向かって、自分たちがどんな無礼をはたらいたのか合点が行かぬので、どうか教えて欲しいと尋ねる場面が出てくる。桃太郎の答えは、日本一の自分が鬼ヶ島の成敗を志したからだ、というもの。全く中身がない。

 いや、むしろ、その程度の理由だけだった方が良かったのかも知れない。荒唐無稽であっても、いっこうに構わない。古来からの伝承なのだから。

 だが、先週のNHKの桃太郎には、きちんとした理由が丁寧に説明されていた。
 鬼はあちこちで財産を略奪していて、おじいさんとおばあさんもその犠牲となり、鬼に暴力をふるわれたという設定だった。鬼が里を荒らす、といった抽象的なお話ではなくて、桃太郎の身近なところで起きた悲劇が描かれている。
 そしてこの事件は、桃太郎に、生まれて初めて感じたという怒りの感情を与える。それが、鬼と戦うための「トレーニング」の動機となるという展開だった。

 報復のための暴力は、努力を重ね、歳月を重ねてでも実行されるべき正義なのである。そして報復への感情は、誰から教わらずとも、生まれながらにして感じるとることのできる、自然な正義の感情なのだ・・・
 と、NHKの番組が描いた桃太郎は、そう訴えかけているようでもある。テレビを観ている子どもたちに向かって。

 21世紀の私たちは、かつては空虚なものでしかなかった桃太郎の正義に、明快で確固たる根拠を与えようとしているのかも知れない。
 悪は懲らしめられるべしというその「自然な感情」の前で立ち止まり、理性と知恵を働かせない限り、世界に平和など訪れないと、私は思っているのだけれど・・・。

微かな希望2007年06月06日 23:09


今日の昼過ぎ、私の若き舎弟の一人が唐突に仕事場を訪ねてきてくれて、報告したいことがあると言ってきた。どうやら、当面の懸案事項に片がついたらしく、これからしばらくの間、時間に余裕ができそうだとのことだった。

それならばと、2,3の頼み事を彼にお願いし、承諾を取り付けた。
そのうえで、若くて時間に余裕のあるときにしか出来ないことを見つけ、実行してみてはどうかと、話を向けてみた。まあ具体的には、できれば1か月、少なくとも2週間くらい、海外に出かけて新鮮な体験をしてみてはどうかと言ってみたわけである。
だが、この20代の若者の口からは、私には全く信じられないような返事が飛び出してきた。

「国内でいいですから、80才になる爺ちゃん、婆ちゃんをどこかに連れて行ってあげたい。」

はあ? 何を言ってるんだ、このバカモノ、いやワカモノは!
私はこの若き舎弟の言葉に呆れ、あまりに本気であることにさらに呆れ、「そんな死にかけた年寄りにカネと時間をかけるのはムダ。未来のある自分自身に投資しなくてどうする。往復9,800円の韓国行き航空券を紹介するから、カノジョ(これから緊急につくれ!)を連れて楽しんで来なさい。」と、極めて「適切」なアドバイスについて熱く語った。
しかし、この馬鹿者、いや若者は、パスポートの期限が切れているとか、もうグアムに行ったことがあるとか、ワケの分からないことを言って年寄りが参加可能な国内ツアーにこだわり、私を呆然とさせてくれた。

だが夕刻になって、居酒屋で一人で飲んでいるうちに、この馬鹿者、いや若者の言葉が、だんだん心に染みてきた。
自分自身のかけがえのない時間とカネよりも、死にかけた老人(いや彼によればピンピンしているそうです)のことが気にかかるという、この天然記念物のような、あるいは生ける化石のような善良さは一体何なのだろう・・・。

女房の話によれば、数年前から私は、全てに絶望しているようだったと言う。
確かに、私は「○○の問題は、○○の方法によって解決が可能であり、政府は○○をすべきである」といった評論の全てが信用できないでいる。そもそも「全ての問題は必ず解決されなければならず、また、それは可能である」という思想自体に疑問を抱いている。その思想自体が人々を苦しめ、不幸に追いやっているのではないかと。

その疑問は「絶望」に限りなく近いものがある。解決すること自体に疑問を抱いてしまうと、全てがどうでもよくなって、投げやりになってしまう。その手前で踏みとどまるのがすごく難しい。
しかし、今の職場で若い舎弟たちと接するうちに、何となく微かな「希望」というものを感じることが時々ある。私くらいの年代はダメな人間ばかりでも(すいません、1960年代生まれの人たち)、これからの若者には希望が持てるのかも知れないと・・・。つまりは、解決されるべき以前の善良な人たちが、この世には案外たくさんいるのではないかと・・・。

今日来たその若き舎弟に関しては、その冴えない服装を改めろと、ずっと言い続けてきた。
けれど今日、彼が肩から提げていた、あまりにもダサいバックについて、何も言えなかったのは(なお、ほかにも気になる点は多数あった)、彼が私に与えてくれた希望のせいなのかも知れない。

まあダサくてもいいから、その善良さをずっと失わないことが大切なのかも。
すまん○○君、私が年寄りになったら、年金のこととかヨロシク!

Imagine there's no copyrights2006年12月17日 18:31

 想像してごらんよ すべての人々が
 ジョンの歌を もっと自由に歌える世界を

 僕は夢想家でも独りぼっちでもない だって
 いつかヨーコが 著作権を全て放棄してくれるはずだから
 そうすれば世界は きっとひとつになれる


* このうたを、ジョンとヨーコに、
  そして、先週京都地裁で有罪判決を受けた
  Winnyの開発者の方に捧げます。

後日談8・ルチェーラのレストラン2006年10月29日 09:28


ルチェーラでは、トレードマークがターバン姿のサラセン人という(中世のルチェーラにはサラセン人のコロニーがあった)、この街ならではのレストランで食事をした。
この街には、街の規模の割に"高級"を売りにしたレストランがいくつかあるし、有名観光地でもないのに、ワインバーやパブスタイルの店もある。意外とグルメの街なのかも知れない。
しかし、私が行ったそのお気に入りのレストランは、どちらかというと、そんなグルメ路線に乗り切れてないレストラン。

ダメなところその1は、ウェイターのおじさんがワインの在庫も値段も把握してないこと。
メニューに載っていた"Primitivo di Manduria"を頼むと、「それはない・・・、と思う。」という曖昧な返事だった。実は、私は去年もこの店で食事している。そのときも同じワインを頼もうとしたのだが、去年も全く同じ返事だった。
というわけで、今回はホントにないのか、おじさんと一緒に冷蔵庫の前に立ち、自分で確かめてみた。

この店では、白も赤もロゼも何もかもが、同じ冷蔵庫で同じ温度で保管され、その温度のままに客に出される(一カ所で在庫が全部が見られるので、とっても便利)。
二人で確かめてみたところ、やはり"Primitivo di Manduria"はなかった。それならばと、冷蔵庫に現物があった"Aglianico"が気になり、値段はいくらかとおじさんに尋ねた。おじさんは、値段はメニューをみてくれと言う。いや、私はメニューに載っていなかったから聞いたのだがね。
二人でワインリストを眺めてみると、やはり"Aglianico"の値段は掲載されていない。困惑した表情のおじさんは、しばし熟考の末、「6.5ユーロ・・・と"私は"思う( Secondo me, 6.5euro...,penso io.)」と仰る。"私は"ってどういうこと? お店としての見解ではないってことかよ!?
で、そのワインの値段は6.5ユーロ(約1,000円)でよいことに二人で決め、私はそのワインを頼んだ。それにしても、1000円のワイン一つのために、やけに時間と手間がかかったこと。

ダメなところその2。お店のスタッフが客席でテレビを観ていること。
私が好きなレストランの条件は、まず、厚手の布をつかったテーブルクロスや、凝ったデザインの扉、古木をつかった梁のある天井など、雰囲気づくりにお金がかかっていること。
そして、その次が非常に大事なのだが、テレビが置いてあったり、へたくそな絵が飾ってあったり、食品メーカー提供の冷蔵庫(幼稚な花柄や子ども向けのキャラクターが描いてある)が置いてあったりすること。
せっかくの雰囲気を台無しにするアイテムが必ずないと、なぜか落ち着かない。そのトンチンカンな感じがたまらなく好き(もちろん、そのトンチンカンさなりに低価格でないといけない)。

このレストランは、内装やテーブルの雰囲気は高級路線。ところが、テレビ、変な絵、花柄冷蔵庫の3点セットが揃っているばかりか、さらに場違いな感じの水槽があって、水槽とほぼ同じくらいに巨大化したミドリガメが、じたばたやっている。そして、テレビからは大音響が漏れており、厨房の奥から出てきた白衣を着た人や、さっきまでピザを焼いていた人とかがテレビの前の客席に座ってクイズ番組に熱中していた。

このダメダメな雰囲気が、私を惹きつける。
ルチェーラのこのお店は、ダメなところがいっぱいでも、そこそこ美味しい料理を出してくれるし、私に高い金をふっかけてくることもない。ウェイターのおじさんは愛想を振りまくわけではないが、決して"中国人"を特別な目で見たりしない。それで十分だし、私には快適。
この店のダメなところは、決して取り除いてはいけない気がする。ほどほどの店が、ほどほどの
ウェイターが、十分に生きて行ける社会の方がいいに決まってる。いつまでも、そんなプーリアであって欲しいと思う。

帰国後、ニッポンのファミリーレストランに行ったとき、そのきちんとした応対をしてくれるアルバイトさんたちが、なぜか痛々しく感じられた。
マニュアルに従ってるだけで心がこもってないとか言う人もいるけれど、これで心までこもっていたらますます痛々しい。客なんて、そんなにエライわけじゃないんだしね。

信長の孤独、マキャベッリの孤独2006年07月26日 17:12

キャンティ・クラシコ マキャベッリ

今年のNHK大河ドラマは、いつになくよく観ていた。仲間由紀恵は好きだし、一回くらい観るのを忘れても話が読めるから、「必ず観なきゃ」というプレッシャーもなく気楽に観られた。
ただ、こうして過去形になってしまったのは、信長が死んでしまってからというもの、何となく興味が薄れてしまったせい。

さて、今回も信長に関する様々な描写をみるにつけ、やはり辻邦生氏の『安土往還記』は巧いなと思ったりする(すいません、また辻邦生です。もうすぐ七回忌なんです)。
今回の大河ドラマでも、最後の頃の信長はちょっと狂気じみた感じになってきていた。「やはりそう来たか」と思わせる信長の描き方である。そうした描写に比べると、『安土往還記』の信長は最後の最後まで冷徹で、その感情というものがほとんど伝わって来ない。その分、かえって凄みがある感じがする。
この作品の語り手はジェノヴァ人の船乗りという設定になっている。この船乗りはジェノヴァで妻とその愛人を殺し、故国を出奔したという経歴をもっていて、彼は「信長の孤独」に対する共感を軸に、信長の行動の意味を解釈して行く。そんな作品だ。
おもしろいのは、作品を通して「信長」という言葉が出て来ないこと(辻氏自身が「信長」という言葉は一度も出てこないとどこかに書いていた)。ジェノヴァ人の語り手は、「大殿」(と書いてシニョーレと読ませる)としか”彼”のことを呼ばない。

実は、後でマキャベッリの『君主論』を読んだとき、最初に思い浮かべたのは『安土往還記』に描かれた信長のことだった。そのとき、この作品は『君主論』からインスパイアーされて書かれたものではかったか、と思った。
「彼にあっては政治の原則は一つしかない。すなわちこの力の作用の場において、力によって勝つということである。」とは、『安土往還記』に出てくる一節だが、これがチェザレ・ボルジアの描写として君主論の中に書かれていても全然おかしくない。

実際、辻邦生はこの作品の中で、語り手としてポルトガル人でもイギリス人でもなく、あえてジェノヴァ人を選び、信長を「シニョーレ」と呼ばせている。私の印象はかなり当たっているのではないかと思っている。辻邦生氏の未完の作品である『フーシェ革命歴』にもマキャベッリの影が感じられる。ここで描かれているフーシェ(フランス革命期に警察長官をやっていた人)は、まさにマキャベリストそのものなのである。

もっとも私が知る限り、辻邦生がマキャベッリについて書いたものを知らないし、そうした解説に触れたこともない。ただ去年、アルチュセールの「マキャベッリの孤独」という講演メモを読んで、辻邦生とマキャベッリとのつながりに関しては確信をもつようになった。それを理屈で説明することができないのがもどかしいが、ともかく妙に納得できたのである。
マルキストにしてフランス現代思想(まだ現代でいいんだろうね)の大御所様が語るマキャベッリの孤独。簡単に言ってしまうと、マキャベッリというお人は、決してどこかのジャンルに分類できない思想家なのだそうだ。
辻邦生氏がこれを読んでいたかはさておき(アルチュセールの講演か講義を直接聞いていた可能性も高いが)、マキャベッリの思想に漂う「孤独」を読み取り、それを信長の孤独に託して描いたのが『安土往還記』ではなかったか。そんな気がしている。