「市民」から人へ。人から市民へ。2009年05月21日 02:24

今日からいよいよ裁判員制度が実施される。せっかくなので、ここで一発言っておきたいと思う。
この制度については、「市民」が司法に参加する制度という言い方があるけれど、もうその言い方はやめにして、ちゃんと現実に即した議論を始めようじゃないですか、と。

そもそも私たちは、「市民」という言葉を、特別な意味を込めて使っていることが多い。善良であり、常識を備えており、公平な判断ができ、庶民的であって、毅然として権力を批判できる・・・といった肯定的な意味を込めている。
だから、裁判員制度についての議論が始まったとき、これに反対したのは一部の専門家ぐらいのものだった。だいたい、「市民」が司法に参加するのだから、良い制度だとしか言いようがなかったわけである。
今になって振り返ってみると、このところ議論されている問題点をいち早く的確に指摘していたのは当時の反対派だったのだが、「市民」の敵である法務省をはじめとする反対派の意見は、あまり顧みられることはなかった。

私は、裁判員制度が始まっても、事実認定の精度は、良くもならないし悪くもならないと思っている。
おそらく、冤罪がなくなって格段に良くなることもないし、逆に、冤罪が増えることもないだろう。素人でも6人集まれば、裁判官並みの精度は保たれるだろうし、一方で、裁判員も同じ人間である以上、裁判官と同じ程度には間違えるはず。
しかし、「市民」が参加するという文脈で議論が始まると、そういう冷めた予想は全く相手にされなくなる。「非市民」である裁判官は、常識がなく、不公平な判断をして間違えたかも知れないが、「市民」は全く間違えないか、あまり間違えないという前提で議論が進んでしまう。なぜなら、「市民」であれば常識に基づいて公平な判断を下すはずだから・・・と。
昨年、今さらのように延期した方がよいとか言い出した弁護士会も、もともとは推進派の急先鋒だった。
裁判官が相手では、被告人の言い分をまともに聞いてくれないし、弁護側が証人申請しても採用してくれない。けれど、「市民」が参加してくれれば、被告人の置かれてきた境遇とか、やりきれない気持ちとか、きっと庶民目線で理解してくれるに違いないという、楽観的な思惑があったように思う。

ところが、制度導入が決まって以来、こういった「市民」像を念頭に置いて議論を進めてきた推進派が(とくに弁護士会あたりが)、おそらくは一番驚いたであろう現象が起きてしまった。
「市民」は弱い者の味方であるから、権力者である裁判官とは違って弱者の気持ちを理解できるという前提がある。推進派が期待したのは、国家権力によって身柄を拘束され、弱い立場に立つことになった被告人への理解だったはずだ。しかし、世間の常識からすれば、被告人は悪い弱者でしかない。本当の弱者は被害者なのであって、結局、被害者側の希望を叶えてあげるのが「市民感覚」と理解されてしまった。
それに、人を死なせておきながら言い訳をするのは反省していない証拠であり、まして否認したり黙秘して真相を語らないのは卑怯だ、と評価するのが「市民の常識」である。
この「市民感覚」と「市民の常識」に沿ったかたちで、凄まじい勢いで厳罰化が進んだのがこの数年間の動きだった。
裁判員制度の下で「市民」が判断すれば、無期懲役は死刑になったはずといった論評が巻き起こり、今や日本は、世界に希な死刑大国になり、諸外国から注意されるところまで行ってしまった。
それだけではなく、飲酒運転で死亡事故を起こしたら、7年程度の懲役刑とは非常識であり、25年でも足りないというのが「市民の常識」になった。例えば、故意に人を傷つけ、その相手がたまたま死んでしまったとすると傷害致死罪になるが、その場合の量刑の相場は、2~3年の懲役である。5年を超えることはほとんどない。つまり、過ちで人を死なせたに過ぎない人に対する刑罰の相場が、一気に、意図的に人を傷つけ、そのはずみで人を死なせた乱暴者に対する刑罰の何倍にもなったわけである(いや「市民感覚」からすれば、傷害致死罪の量刑が軽すぎるということになるのか)。
最近の日本が死刑大国になってしまったのは、裁判員制度のせいだけではないだろう。けれど、ここ数年、ほとんどのマスメディアが「もっと死刑を」「もっと厳罰を」と金切り声を上げ、この制度にかこつけた厳罰論を主張し続けてきたのは事実だ。
厳罰化と必罰化とは紙一重でしかない。厳罰化は必罰化を生み、そして、必罰化は冤罪を生む。
いまだに「市民」の文脈で議論したがる人は、「市民が無罪を主張しているのに、裁判官が死刑の結論を市民に押しつける」ような事態を心配しているようだが、ここでメディアが表現する「市民感覚」がその通りだとすると、その逆の事態を心配しなければならなくなったわけである。
マスメディアが「厳罰化の流れ」と、まるで他人事のように表現するこの現象は、私には恐怖そのものだった。
これは「流れ」だから、誰にも責任がなく、誰も反省しないということなのだろう。そんな流れに乗せられて、生きた人間が次々と死刑台に送られる。そんな恐るべき国になってしまった。

しかし、実際に制度のスタートが秒読み段階に入ると、多少はこの恐怖感も和らぐようになった。
なぜかというと、普通の人を念頭に置いた、現実的な議論が復活するようになったからである。
世論調査をやってみると、参加したくないという人が8割ほどいることがわかってきた。司法を民主化するために積極的に参加したいと考えるのが「市民」のはずなのだが、これはなんとも「市民」らしくない答えである。
次いで、自分が死刑の判断をするのは辛いという意見が、かなり広がりをみせるようになってきた。ちょっと前までは、殺人者に無期懲役とはとんでもない話で、死刑を求めるのが「市民感覚」とされていたはずである。「市民」なら、これまでの判例にとらわれた頭の硬い裁判官の主張を跳ね返し、堂々と死刑を主張し、正義を実現するはずだった。正義の味方たる「市民」にしては、なんとも頼りない感じになってきてしまったわけである。
新聞の社説などを注意深く読んでみると、「市民」という言葉と「人」という言葉が使い分けられていることがわかる。参加したくない人は「人」であり、興味すらない人は当然「人」として表現される。一方、これで司法を変えられるとか立派な意見を述べる人は「市民」とされる。しかし、世論調査の結果は、「市民」よりもただの「人」の方が圧倒的に多いことを示している。
こうした多数派の傾向を認識したマスメディアは、かつては一切無視するか否定してきた制度の問題点の発掘に励むようになった。おかげで、現実的な論点が日の目を見るようになり、多少はまともな議論が聞けるようになってきたというわけである。
結局、「市民」という言葉で議論している間には見えなかった現実が、ようやく皆に見えるようになったということではないだろうか。
私たちは「市民」ではなく、ただの普通の人でしかなかったのである。裁判官に向かって、お前たちは「市民的」でないから選手交代だと、外野席から野次を飛ばすのは簡単だけれど、実は今、私たちが立とうとしていたのは、玉が飛んでくるグラウンドの真直中だったのだ。

だから本当は、普通の人が参加するという現実的で具体的な前提の上で制度の問題点を考え、あらかじめ制度への理解を広めておくことが必要だったのだと思う。
例えば、こんな問題を皆で真剣に考える必要があったと私は思っている。もしかすると真犯人かも知れないが、証拠は十分とは言えないとき、あなたならどうするか。
正解は無罪であり、金賞がもらえる模範解答は「裁判官が有罪と言っても無罪を主張する」ということになるが、これが実は、死刑判決を出すより難しい。誰がみても無実とわかるような事件は、そもそも起訴されない。それなりに証拠が揃っているから起訴されるのだから。
そのため、無罪でよいと思っても、もしかすると真犯人かも知れないという気持ちが必ず残るはず。世間は死刑を期待しているし、もし無罪という判断が間違っていたら被害者に申し訳ない。かといって、もし無実の人を死刑にしてしまったら・・・さてどうする?
しかし、「市民」なら的確に真実を見極めることができるという前提の下では、こういう問題はそもそも起こらないことになっている。誰もが正解できる模範解答は用意されているものの、その結論を出す過程で生じる悩みを共有し、覚悟を決めるための議論が、ほとんどなされてこなかった。

とはいえ、前にも言ったように、問題は多々あっても、裁判の中身が悪くなることはないと思う。
私は当初、どちらかというと反対だった。けれど、半年前くらいから世間が騒がしくなり、問題ありの声が大きくなるにつれ、ひねくれ者の私は、大賛成に転じている。
実は、この制度には、あまり議論されていなかったところに、なかなか味のある仕掛けが(こっそりと)してある。制度についての理解が進むにつれて、私もあまり心配しなくてもよいと思うようになった。
それに、このところの現実的な議論は、参加を嫌がる普通の人に対して、責任ある市民としての覚悟を促すものになってきている。これなら、やった方がいいし、ちゃんと続くようにして欲しい。
一つ裁判官に注文を付けるとすれば、難しい事件にあたってしまったなら、「証拠が十分でないと思うなら、勇気をもって無罪と言ってください」と、悩める裁判員を励まして欲しいと思う。同じ悩みをもつ仲間として裁判員を迎え、経験豊富なプロの立場からアドバイスして欲しいのである。
そしておそらくは、その悩みを裁判官とともに乗り越え、覚悟をもって結論を出した裁判員だけが、まさに「 」でくくる必要のない市民になれるのだと私は思う。

私は今こう思っている。
この制度は、「市民」が参加するからよいのではない。人を、本物の市民にするからよい制度なのだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
次の答えを入力してください。

プーリア

コメント:

トラックバック