雑きのこ鍋への道2006年11月05日 00:16

ImageName 昨日は、有料のトンネルをつかって、雑きのこの買い出しに出かけた。
トンネルの向こうに農産物直販所があって、山で採れた天然きのこもよく出る。ここの野菜はいつもピカピカでお気に入りなのだが、きのこの方の鮮度も抜群にいい。

前回は開店時間よりやや遅れたため、その直販所できのこが買えなかった。次善の策として、温泉場のスーパーに、時間をずらして2度も行く羽目になった。店にもよるが、雑きのこは時間差で入荷してくる場合もある。最初にのぞいたときに気に入ったものが見あたらなかったため2、3時間後にまた行ってみたわけである。

今回は、直販所の開店1分前にドアの前に並び、開店直後に雑きのこの棚にまっしぐら。ライバルは3名前後。最初に棚に取り付いた一人が、さっそく、品数の少ないリコボウを数パックも抱えるようにして持ち去って行った。私も負けじとリコボウ1パックを確保。
その後、クリタケ、ヒラタケを買い物カゴに入れ、まずはお会計。
そうやって雑きのこを確保した後、また店に戻ってゆっくりと他の野菜をみる。そこで、晩は鍋にしようということになり、天然なめこを買い足し、ネギも買った(このネギもすごく旨くて3本で50円!)。

ImageName 買い出しが済んだら、山奥にあるのに繁盛している不思議な喫茶店でブランチ。
前回は、温泉場のスーパーに時間差攻撃をかけるため、その喫茶店で時間調整をした。今回は買い出しが順調だったため、時間調整の必要はなし。最近渡ってきたジョウビタキの声を聞きながら(右の写真もその喫茶店近くで撮った)、ゆっくりと過ごす。

ImageName かくして、昨日の夕飯はきのこの炙りと雑きのこ鍋。

今回の買い出しは大成功だった。どのきのこも鮮度が非常によく(たぶん朝採ったばかり)、採取やパックのやり方も丁寧で、泥や落ち葉があまり着いていない。
その直販所に品物を出している方々の心意気が感じられる。ありがたや。

ImageName 余ったきのこは、女房が水煮にして冷蔵庫に保管。
これが結構もつ。しばらくは味噌汁やパスタの具になって活躍してくれるはずだ(きのこ鍋も可)。

去年はきのこの性質がつかめておらず、何度か失敗してしまった。しかし、今年は相手の正体がつかめたし、安定して旨い雑きのこのパスタソースができている。昨年はクリームとあわせるのがほとんどだったが、今年はトマトもあり。

こんな愉快な季節も、あっというま。
もうすぐ、あの山奥の喫茶店も冬期休業に入り、きのこも姿を消してゆく。

ポフト・ボナーよ、やめないで2006年11月18日 15:50

ポフト・ボナーの目印! シトロエン

・・・と言っても、オーナー夫妻にとってはいろんな理由があると思うし、私にできることなんて、ほとんどない。それでもやっぱり、個人的には是非ともやめないと欲しい。

ポフト・ボナー( Porte Bonheur )という店を、どこかのジャンルに押し込むとすれば、"街の洋食店"といったところ。だが、ここの料理はいろんな意味で特別だと思う。
オーナーシェフは、都会のホテルでフレンチをやっていたこともあって、その技術は超一流。全国からよい食材を集めてくるネットワークもあるようだ。それに加えて、信州の新鮮な野菜や地域ブランドの良質の肉ばかりをつかっている。いつ行っても、どれを食べてもすばらしい料理だと思う。それが、申し訳ないほどの値段で食べられる。

例えば、旬の野菜をつかったポタージュは、一種類の野菜と塩だけでつくられるそうだ。
季節ごとにトマト、カボチャ、コーンなどをいただいたけれど、どれも絶品だった。野菜の旨みの底力をとことん堪能できる名品だと思う(女房によると、カゼをひいたらそのスープだけを飲みに行くとのこと)。
ちなみに、私はカリフラワーが大嫌いだったのだが、一昨日は、カリフラワーをつかったムース状の前菜をいただいた。それがまた、もう一度食べたいと思うほどに旨かった。他の店では絶対にカリフラワーなんて避けるけれど、ここでは何が出てきても旨いに違いないという確信がある。実は、前々からこの店のカリフラワーのピクルスが気に入っていて、私のカリフラワー嫌いはかなり改善されつつある。

私たち夫婦にとって、この店は松本ライフの生命線のようなもの。夕食を外食でというときは、この店のお世話になるのがほとんどだった。自宅からギリギリ歩いて行ける距離ということもあって(田畑を越え、川を2本ほど渡るけどね)、ポフト・ボナーにさえ行けばおいしいものが食べられるという安心感は、私たち夫婦にとって、何よりも代え難いものとなっている。

ところが一昨日、夕食に出かけてみたら、店を閉めるかも知れないと言われてしまった。私たち夫婦にとっては衝撃的な知らせだった。
オーナー夫妻だけで切り盛りしながら、あれだけの料理を格安の値段で出し続けてこられたわけだから、これまでも随分と大変だったのだろうと思う。傍目からみても、これまでのスタイルを堅持しながら何年も続けて行くのは無理という気が私もしている。ほどほどに手を抜くか、やめてしまうかの2つしか選択肢はないような。

すでにメニューは大幅に縮小しているようで、12月からはランチの営業を土日だけにする予定らしい。
ともあれ私たち夫婦としては、ポフト・ボナーが消滅する前に、厳寒の中であっても足繁く通う覚悟である。

いじめている私たちへ2006年11月25日 17:08

例えば、イーホームズという会社があった。例の耐震強度偽装事件で、いわゆる"姉歯物件"の建築確認検査をしていた会社である。
突拍子もないことを言うようだが、私たちがこの会社や社長個人を徹底的にイジメた根拠は何だったのだろうか?

偽装を知っていたのにずっと隠していた? それなら、なぜ社長は公表に踏み切ったのだろう。自らの立場や会社を危うくするというのに。
では、偽装を見抜くべき立場にあったのに見抜けなかった落ち度があったのだろうか。
この点、私は、偽装の発見はかなり難しく、彼らの落ち度を非難することはできないと思っている。確かに、そこに偽装があるという前提が与えられていれば、構造計算書という数字の大海原の中にあっても、偽装箇所を見つけ出すことはたやすいと思う。しかし、正しいかも知れないし間違いがあるかも知れないという前提で、偽装を見抜くことはかなり難しかったのではないかと考えている。

私も最初は、杜撰な検査が行われていたのではないかとの印象をもった。けれど、テレビ番組に出演していたイーホームズの実務担当者たちの説明を聞いてみて、見抜くのが困難だったという彼らの弁明には説得力があると思った。スーパーマンのような眼力はなかったものの、普通の人として、やるべきことはやってきたのだ、ということが理解できたからだ。
ところが、他の出演者たちは、「それでは困る」という感情論だけでイーホームズ側の弁明を一蹴してしまった。最初から彼らは「悪」であるという前提で議論をはじめ、どんな合理的な説明があろうとも、決して耳をかさないという態度である。
確かに、悲劇的な事態が起きており、検査機関が見抜けなかったのも困ったことである。しかし、どんなにキチンと仕事をやっていたとしても、避けられない事故というものがある。どうにもできなかったことを責め立てることはできない。みんな困ってるからお前が悪いと決めつけるというのは、野蛮なやり方だ。

むしろ、構造計算の元請けとなっていた設計事務所も、建築確認申請を受けた役所も、みな見抜けなかった中で、彼らが最初に問題を発見し、そしてきちんと公表したということについては、もっと評価してよかったのではなかろうか。まして、つまらない架空増資事件で社長を逮捕したり、会社を潰して従業員を失業させてことに正義があったのだろうか。
とんでもないマンションを買わされてしまった被害者自身が、イーホームズに疑いの目を向け、怒りを顕わにするのは理解できる。しかし、ジャーナリストでございという、立派な肩書きをもった人たちが、被害者本人でもないのに冷静な判断を放棄し、「悪」の懲らしめに走るというのはいかがなものか。

それで、話は学校でのイジメの話に飛ぶが、私が最も厄介だと思っているのは、イジメている側が全く罪悪感をもたず、むしろその行為に正義を見出している状況があるということだ。
もちろん、一口にイジメといっても、様々な状況があるため一概には言えないのだが、少なくともイジメと言われているものの中には、そのようなタイプのものがあるということだけは言っておきたい。つまり、一定の状況下では、イジメる側は一種の"被害者の会"のようなもので、そこでは一種の"加害者"に対する報復が行われており、それが非常に厄介だと思うのである。
むろん、そこにはっきりとした加害行為や被害があるとは限らないし、当然、理不尽な言いがかりであることが多い。給食を食べるのが遅いからA君のおかげで皆の昼休み時間が減る、B君の顔が何となく気持ち悪く皆が不快感を抱いている、成績のよいC君は将来官僚になって庶民をイジメそうだから悪い人である・・・、理由は何でもいい。
被害意識をもった側の集団が、「悪」の懲らしめのために悪口を言い、シカトし、果ては暴力に及ぶわけである。やってる本人たちは正義の執行をしているとしか思っていないから、それがイジメだとは思わない。たぶん彼らは、イジメについてどう思うかと問われれば、「イジメは悪いことだから決してやりません。誰かがやっていたら止めるようにします。」という優等生的答えをすることだろう。しかし、イジメは悪いことであるが、自分のやっていることは正義であるから、それとこれとをイコールで結びつけることができない。
ここでは、「悪いことをしてはダメ」という正義論など通用しない。むしろ、悪を許すという寛容論が必要なのだと思う。

私が思うに、私たちの社会には、"被害者"という記号を獲得した者が権力をふるい始めると、誰も止められないところがある。"被害者"だから多少言葉がきつくなっても致し方ないし、"加害者"をどつくくらいのことは許されると、皆が思ってしまう。そうやって過剰な暴力がいったん肯定されると、さすがに行き過ぎと思っても見て見ぬふりする態度をとるのが得策となり、暴力を止める議論や言論が成立しなくなるのである。
それにジャーナリストやら、果ては"人権派"弁護士までが荷担し、"加害者"イジメを積極的に肯定する発言を繰り返す。彼らは、些細な落ち度も許さず、徹底的な責任追及をするという不寛容さこそが、自らの正義感の物指しと信じているようである。しかし、その不寛容さは、「給食を食べるのが遅いA君」の落ち度を責め立てる不寛容さと全く同じだと私は思う。

今、イジメの問題が新聞でもテレビでも大流行だ。
だが、あのイーホームズの弁明に耳を傾けず、徹底的にイジメ抜いてしまった私たちが(今頃になってこんなブログを書いている私も含めて)、大いに反省することなくして、イジメなど止められるのだろうか。

後日談9・実地研修2006年11月28日 20:01


今回の旅行では、バーリでレンタカーを返し、ポリニャーノまでは鉄道で移動した。ポリニャーノは特急クラスの列車が停まらないため、通勤などにも利用される普通列車に乗った。

で、その通勤用の列車なのだが、ものすごく違和感のあるピカピカの新車だった。
落書きがされていない。白い。ドアがサーッと開く。照明が全部点く。座席が破れてない。ゴミが床にこびり着いてない。どこも壊れてない・・・。
しかも、運転席のドアが開いていて客席から丸見えだったのだが、仰天するようなハイテク風の操作系! 大きな液晶パネルがあって、いかにもコンピューター制御で動いてますという感じである。
何かその、東京の、郊外の、新しく開通したばかりの新線に乗ってしまった気分だった。

これでは「南」ならではの旅心も何もあったものではないわ、と嘆きつつ、ピカピカの座席に座って発車時刻を待った。
バーリが始発だったため、私が乗り込んでから発車時刻までは、まだ10分近くあった。ところが、座ってからまもなくドアが閉まり、列車が走り出した。時計を見ると、定刻より5分以上早い! ホームでぶらぶらしていた人たちの度肝を抜く緊急発車であった。いやいや、せっかちな日本の都会だって、定刻前に発車したりしない。いくら車両がピカピカだからといって、それはやり過ぎだろ!

と思って運転席の方を見たら、右に座ってる方の人が操作パネルのどこかに触って、すぐに列車を停車させた。
そして、またドアが開いた。
見ると、運転席の左に座っている方の人が、よくわかったという風に何かうなずいている。二人の間には、マニュアル風の書類が置かれていた。つまり、右側の人が左側の人に、この最新鋭機の運転方法を教えていたようなのである。実際に車両を動かしながら(何とわかりやすい教授法だろう)。
これを日本でやったら、いろんな方面からこっぴどく叱られるだろうな、と思いつつ、ツールは最新型であっても、決して「南」マインドを忘れていなかった運転手さんたちに安心感を覚えた。いや、乗客としては安心しちゃいけないか・・・?

その後、列車は無事ポリニャーノにほぼ定刻通りに着いたけれど、最後までどっちの人が運転しているのはわからなかった(片方の人は、ついさっき出発するときの操作を習ったばかりなので、運転してないと思う。たぶん)。