『ブロンド少女は過激に美しく』2011年02月26日 22:10

先日書いた東京での「都会の買い出し」の少し前、実は名古屋にも買い出しに出かけていた。
そのときの暇つぶしに観た映画が『ブロンド少女は過激に美しく』だった。
http://www.bowjapan.com/singularidades/trailer/

どうせ観るなら、マイナーな映画館でマイナーな映画がいいと思い、名古屋に出かけた際、ちょうど上映されていたこの作品を観てみた。
主たる目的だった買い物自体には全く成果がなかったものの、この映画は大変に印象的。もうどうでもいい映画だわい、と思いつつも、もう一度観てみたいような不思議な映画だった。

物語の設定は、主人公がポルトガルの鉄道の車内で、自分の"ブロンド少女"との恋の苦悩に満ちた顛末を、隣の乗客に語って行くというもので、その主人公の苦悩の理由は最後の最後までわからない。

百歳オーバーの監督(マノエル・デ・オリヴェイラ監督)が撮ったせいなのか、人の行動様式は異様に古い(設定は、パソコンが個人商店の会計処理に利用されていたりして、まさに現代なのだが)。
とくに、主人公と少女との恋は、今時そんな展開ありえんだろうという古さである。道をはさんだ隣の建物の窓際に佇む少女。ベランダに立って少女を見つめる主人公。そんなこと(だけ)で恋が芽生え、ほとんど話しをしたことがないのに結婚をしたいと心に決める主人公。なぜか、あっと言う間に彼の愛を受け容れる少女。
その後キスシーンすらなく(最後の最後までそんなのはなし)、少女へのプロポーズすらなく、主人公が少女の母親の了解を取り付けることで少女との結婚がほぼ決まってしまう。そうかと思うと、主人公の叔父の反対が、なぜか結婚の決定的な障害になってしまう。

そのせいか、現代の現実的な描写を淡々とやっているようでありながら、ひどく浮世離れしたような印象を受ける。歴史が降り積もったポルトガルの古い街並みの背景もあいまって、新旧の様々な時間の流れが同時進行しているような感覚だった。パソコンが映し出されるシーンさえなければ、時代設定は百年近く前の感じなのである(原作がそもそも、かなり古いらしい)。

最後のオチは「途中からそんな予感もしていたけれど、まさかそんな!」というもの。
主人公の苦悩の原因は、少女が自分の気持ちを受けれないということでもなく、誰かが反対しているということでもなく、互いの気持ちが変わってしまったということでもなく、経済的な理由で結婚できないということでもなく・・・私は苦笑しながら映画館を去った。

百歳を超える監督は、「恋とはそのようなもの」とばかりに、こちらの気持ちを、ただ揺さぶってくるだけである。
しかし凡人は、この結末には「何だこりゃ!?」と苦笑するか、怒るかしかない(さもなくば呆然とするしかない)。感動の涙もなければ、清々しさも、晴れやかさもない。怒るだけの若さもなく、巨匠ほどの人生経験のない私は、苦笑するしかなかった。

畏れ入りました。確かに恋は、百年前も今現在も、全くもってそのようなものなのかも知れません。

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プーリア

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