シングル・アゲイン(その2)2010年09月04日 21:24

 
この夏の最大のイベントは、エストレヤに乗っての出雲大社参り。途中、伊勢神宮、奈良の大仏、永平寺などビッグネームの神社仏閣を参拝し、とにかく拝み倒すという全長2000キロメートルの旅だった。
写真は、出雲大社参りを終えた直後に立ち寄った「植田正治写真美術館」の駐車場でのもの。背景は大山である(この場所で、どれほどのライダーたちが、これと同じ構図の写真を撮ってきたことだろう)。

旅の3日目くらいで、慣らし運転が必要な走行距離1600キロを越え、後半は人間の方もエストレヤの特性にも慣れてきて快適な走りができるようになった。というわけで、ここでエストレヤの最初の印象を書いておこうと思う。でも、これはGN125Hと比べての話なので、普通の人には参考にならないかも。

○ シングルだけど、振動が少なくて静か。一応、バランサーが入っているせいなのか。おかげで手が痺れなくなった。それにしてもGNは、キィーキッキッキ、ズギャーン、キュワイーンとかなり賑やかだったな。
○ 加速や減速が緩やか。粘り気のある走りという印象で、ゆったりとした気分で走れる。GNの場合、超軽量のキャブ車であったため、スロットルを開けたときにガンと来て、閉めたときにもガンと来るショックがあった。
○ カーブを高速で走れる。素直に車体を傾けることができて、安定感がある。超軽量で某国製のタイヤをはいたGNでは、かなり減速しないとカーブは恐ろしかった。
○ 燃費が良い。平均して38km/1Lくらい(GNの40~45km/1Lには及ばないけれど)。これなら、13Lのタンク容量だから500キロ近くを無給油で走れる。
× 街中の低速走行や、なだらかな下り坂で微かにスロットルを開けるような状況だと、エンジンの回転数が不安定になって乗りにくい。未完成フューエル・インジェクションの宿命なのか。最初はかなり気になったが、今ではスロットルの扱いに慣れれてきて、その困った現象を回避しながら走っている。
× フューエル・インジェクションなのに、暖気に時間がかかる。

ま、とかく「遅い」と悪口を言われるエストレヤだが、私には十分に速い。スペック上のパワーはGNと大差ないにしても、さすがに排気量が2倍になるとゆとりが違う。普通の人なら気になるであろう振動も、GNに比べれば何てことはない。

ただ、こうして長距離を走ってみて、より大きなバイクに乗りたいと思う人の気持ちがわかった。走っているときの快適さを求めるなら、やはり大きいバイクの方がいい。とくに高速道路では、も少しパワーが欲しいと思うシーンがしばしばだった。
ただ、止まってからの取り回しを考えると、エストレヤの重量160kgが私の限界かも。カワサキさんには、是非とも製造を続けて欲しいと思う。少なくともあと5年くらいは。

植田正治写真美術館2010年09月05日 22:47




植田正治写真美術館は、もう何年も一度は行ってみたいと思っていたのに、ずっとその機会がなかった。その思いが叶ったのが今回の出雲大社参りだった。
訪れてみて、やはり植田氏の作品のすばらしさに圧倒された。
海外で"Ueda-Cho"と呼ばれる演出写真が代表作だけれど、その「演出」は、これは演出された映像なのだと見た者にはっきりわかる一方で、その演出度はとても控えめで、人物の表情も自然に見える。とかくマスコミに氾濫し、これは演出ではなのだというアピールが鼻につくヤラセ映像に慣れてしまったせいだろうか。もはや植田氏のそれは、「演出」とさえ言えないような気がするほどに清々しいのである。
一方、普通の人がカメラを向けられたとき、カメラを意識して普通に反応するそのままの表情を捉えた一連の作品も、さすがと思う。被写体となった人物が、意図的にカメラを意識しないように振る舞うとすれば、それもまた一種の演出された映像になってしまう。演出写真で名をあげたかと思うと、今度は逆に、カメラの存在を被写体が意識しているという、その場のありのままを写し取るという戦術で行く。なんてカッコイイんだろう。
上の写真は、館内にある上映室の壁に映し出された、その日その瞬間の大山の映像。
反対側の壁には巨大レンズが"装着"されていて、その上映室の空間が、巨大なカメラになっているのだった。この壁と同じ大きさのフィルムか、CCDか、CMOSがあったなら!!!
ま、カメラのことに無関心な方々にとっては、「だから何?」という感じなのかも知れない。しかし、子どもの頃、小っちゃなピンホールカメラに印画紙を仕込んで撮影に興じていた私は、この粋な趣向に、ただただ感動するばかりであった。

灼熱の砂丘にて2010年09月07日 21:57



鳥取の砂丘を訪れたのは、猛暑日が続いていた八月末、しかも正午頃のことだった。
駐車場から小高い丘を登り、砂丘の全貌が見える地点に立ったときの最初の乾燥、いや感想は、「どこにも日陰がないじゃないか!」という不安に満ちたものだった。
 
地面は裸足で歩けないほど熱そうだし、どう見ても半端な暑さではない。しかも、歩きにくい砂地を登ったり降りたりで、かなり体力を消耗しそうだった。
無理して砂丘の中を歩く必要もないのだが、はるばるやってきたのだし、下の方の水が湧いてるところも見てみたいし、砂の丘の上にも立ってみたい。
かくして、まずは最も下の地点である湧き水を目差し、それから丘の上に登るコースを選択。
 
最初の写真の左下に少し見える緑は、湧き水周辺の草地の一部である。
このあたりの砂丘の斜面は、急すぎて登る人がほとんどおらず、足跡がほとんどついていない。登りのコースから外れているせいもあって、人もいない。
そのきれいな斜面に、流れる雲が刻々と変化する陰影をつくっていて、ボーッと風景を眺めているには最適なポジションだった。ま、あまりボーッとしていると、熱中症になりそうだったけれど。
 
その後、大勢の人が登っている丘の方へ移動。
かなり斜めに斜面を登り、体力を温存する作戦をとった。
そして斜面を登り切り、反対の海側の斜面を見下ろそうとして、緊急後退。
向こう側もなだらかな斜面だろうという予測しながら近づいたのだが、何と海側は垂直に近い斜面だったのである。
まあころげ落ちても、途中からなだらになっているし、全部砂地であるため怪我はしないだろうとは思われたが、かなり怖かった。
 
写真は、その「絶壁」の上で、猛烈な暑さのためか、急斜面に前途を阻まれてか、とにかく呆然としている若い女性3人組である(4人じゃなくて残念・・・すいません、植田先生)。


フェリックス・ティオリエ写真展2010年09月12日 22:24

 
この週末は、山梨県立美術館に出かけ、フィリックス・ティオリエ写真展を観てきた(写真は美術館の敷地にあった噴水)。
ティオリエは、19世紀末前後に数多くの優れた写真を残したフランスの人物。その作品の存在は長い間知られることがなく、近年になって「発見」されたそうだ。

写真展の「順路」の最初に展示されていたのが、彼が使用していた写真機だった。当時、フィルムの役割を果たしていたガラス板も展示されていた。ガラス板が木の枠や板で囲ってあって、写真を撮るときには板をはずす仕組みになっている。その大きなガラス板一枚で一枚の写真しか撮れない。今のデジカメに比べると、その手間のかかりようは100倍を超えるはずだ。

この写真機の実物を観てから作品群を鑑賞したのだが、あんな巨大な装置を使って、どうしてこんな写真が撮れたのだろうと驚く作品が多い。彼の家族、とくに孫たちの動きのある写真が数多くある。その「瞬間」をとらえるのは大変だったろうにと思う。

まだ写真機というものが発明されたばかりの写真だというのに、その作品の完成度は高い。それに、19世紀末から20世紀初頭のフランスの「記録」としても価値が高いものと思われた。
編み物をする農婦たち、葡萄の収穫の風景、壊れかけた中世の城壁、炭坑で働く少年たち、現代と変わらない屋敷の中庭の景色・・・、当時の人々の暮らしが見える。

それで、これは先日の植田正治写真美術館でも思ったことなのだけれど、写真に、撮った人の優しさが感じられる気がした。家族への暖かな眼差しが、そのまま写真に現れているような。

餘部鉄橋解体中2010年09月17日 00:05

 
その日は、鳥取砂丘を後にして海岸沿いの道を東に走り、何となく目にとまった喫茶店で遅い昼食をとった。頼んだメニューは"生姜焼き定食コーヒー付き"である。
遙かなる旅路の途中、「なぜ、も少し気の利いた名物料理を食べない!?」と誰かに詰問されそうだが、とにかくその時は、そういうものが食べたかったのである。

それはさておき、喫茶店で地図をめくりながら、ふと思った。
「そういえば、有名な鉄橋がこの近くにあったような?」
地図上の鉄道路線を辿ってみると、「餘部鉄橋」の文字が。その喫茶店は、ちょうど鉄橋の少し手前の位置にあったのである。
おっと危うく見過ごすところだったぜと、生姜焼き定食を求めて休憩したことが大変に有意義であったと喜んだ。

写真は8月30日のものだが、確か"最後の列車"が古い鉄橋を通過したのは、ほんの少し前の7月だったはず。しかし、すでに古い鉄橋の解体工事はかなり進んでいた。残された橋脚は写真に写っているこの2つと、半分ほど解体が進んだもう1つのみ。グレーのコンクリートの橋脚の存在感が、赤い"残骸"を完全に圧倒している。

このような姿を晒すような事態となっても、ちゃんと一眼レフカメラを携えた少年が、周囲をウロチョロしているところは、さすがであった。手前の山越えルートで、私と一緒に遅いトラックに引っかかっていたハーレー軍団の皆様も、ここで休憩されていた。
そうしてみると、「餘部鉄橋」はかなり寂れつつも、まだ名所として健在だったと言える。保存計画もあるそうだし、これからも名所であり続けるのだろう。

城の崎にて2010年09月18日 00:03

 
その日、餘部鉄橋を通り過ぎた後は、宿を予約してあった城崎温泉をひたすら目差した。
空を見上げると、あちこちで積乱雲が発達中。夕立は避けられそうもなく、予定していた海岸沿いのルートをやめて、近道と思われた山越えのルートをとる。
しかし、積乱雲の発達は思っていたより早かった。山道を走っている途中でポツポツと雨が降り出す。だが少し走ると止み、また走ると降り出す。どうも、山道を走っている途中で、積乱雲と追いかけっこをしているような感じになってしまったのである。

何とか山道を走り抜け、宿に辿り着いて部屋で荷物を解いていると、いきなり外でドワァァァーという音がした。障子を開けて外をみてみると、まさにバケツをひっくり返したような土砂降り。
雷の閃光と、キリキリという雷鳴と地響きがひっきりなしで、久しぶりにみた途方もない夕立であった。眼下の小川も、みるみるうちに濁流になって行く。
「ほう、この地方では、こんなもの凄い夕立があるんだぁ~」とおもしろがっていたが、それが実は、記録的な集中豪雨であったことを後で知った。

宿の方の話によると、私のすぐ後に到着した宿泊客が、駐車場から玄関までのほんの数メートルを歩いただけで、完全にずぶ濡れになってしまったとのこと。山道であの豪雨に襲われたら、まともにバイクを走らせることはできなかったことだろう。空を小まめに観察しておいて良かったと思う。

激しかった夕立も、宿の晩ご飯が済んだ頃にはすっかり上がっていた。
少し散策に出てみると、城崎温泉には、古い温泉街の雰囲気が色濃く残っていた。かなり歩き回っても、コンビニが見あたらない。ファストフード店などもってのほかである。夜の娯楽は射的とスマートボール。パチンコにはインテルもAMDもNECも入ってません。

泊まった宿には、シングルベッドのある和洋折衷の部屋があり、その部屋を利用させてもらった。温泉の方は、大浴場の施設はなく、複数の小さな家族風呂を自由に利用して下さいという最近流行のシステム。
私は、一人で3つの家族風呂を次々と独占利用させてもらったが、中でも印象深かったのが「少年時代」と題された風呂だった。
なんと、風呂場の半分ほどに畳が敷いてあった。濡れたままの体で畳に横になってみたり、畳の上に思い切りお湯をぶっかけたりできるという趣向である。
料理とか接客に関しては、何となくギクシャクした感じで、洗練されていないのだが、こういう温泉宿の新しいかたちは大歓迎である。

あ、それで『城の崎にて』という志賀直哉の小説だけれど・・・、散策の途中、ゆかりのある温泉宿の説明書きを読んではじめて、そんな小説を昔読んだことを思い出した。でも、30年以上も前のことで、何も覚えてない。

足先が写っていて正解2010年09月20日 22:56

 
何かその、植田正治写真美術館を観たせいか、旅の途中で、こんな気取った写真が撮ってみたくなった。これは永平寺の階段。

だが、後でみて、ハタと考え込む。これは上り? 下り? どっち?
上り階段・・・のようだが、それにしては急過ぎる気もする。でも、永平寺には急な階段がいくつもあったし・・・。一方で、下り階段だとすると、縁のところの木材の組み方が違うような・・・。

それで、その答えは写真左下にあった。
広角レンズをつかったときによくあるミスだが、これで上か下かがわかった。

糸魚ってサカナ知ってます?2010年09月22日 22:43

 
この夏の旅、最後の宿泊地は福井県大野市。この街で、是非とも観ておきたかった場所があった。それは、糸魚(イトヨ)という魚が生息する湧き水である。

糸魚は、巣をつくるという珍しい習性をもつ淡水魚である。淡水型と遡河型と2つのタイプがあって、淡水型は陸封型とも言われ、一生を淡水で暮らすタイプ。一方、遡河型は、鮭のように海から産卵のために川を昇ってくるタイプ。
淡水型は、一年を通して一定の温度でないと生きられないため、湧き水のある限られた水域にのみ生息している。もともと生息できる環境が限定されていたわけで、当然のことながら、今は絶滅の危機にある。

私の生まれ故郷である栃木県北部は、その数少ない淡水型糸魚の生息地のひとつである。ここの糸魚はかつて、"最後の博物学者"として名高い昭和天皇にも献上されたそうだ。数年前、このブログで「カワウニ」というネタを書いたことがあるが↓、実は、その作り話のベースになっているのが"陸封型"糸魚が誕生した物語だったのである(いやいやTさん、今回の話はウソじゃありませんから)。
http://ike.asablo.jp/blog/2006/05/25/380159

とはいえ、私は自然の中で糸魚の実物が泳いでいる姿をみたことがない。幼い頃、湧き水がつくりだす小川のほとりに住み、三角網で小川の生物を採りつくした私でさえ、一度もみたことがない。それほどに生息域が限られている希少な生物なのである。
そんな糸魚を観察できる湧き水が大野市にあると知り、今回の旅のルートに無理矢理押し込むことにした。

写真は、大野市の「イトヨの里」という施設の地下にあるイトヨ観察コーナーである。私は、そのガラスの前の椅子に座り、ずっとイトヨが泳ぐ姿を嬉々として眺めていたのだが、最初は「かなり大きな水槽だな」とだけ思っていた。

だが、そろそろ帰ろうかと立ち上がってみて、水面から上の風景に驚愕。そこは何と、自然の湧き水がつくった池で、私が目差していたイトヨが生息する湧き水そのものだったのである。「本願清水」という湧き水(国の天然記念物)の端に施設があって、地下の壁がガラスになっていたのだった。
私は、その「イトヨの里」で、糸魚が棲む湧き水の場所を調べ、翌日訪ねてみるつもりだった。だが、その施設そのものが、その目的地だったのだ。

おそらく、糸魚なる魚に何の興味のない人にとってみれば、この施設は、流行りの"事業仕分け"の対象になりかねないほどにマイナーなものと言えるだろう。けれどこうして、遠方からはるばるやってくるマニアもいるのである。