久しぶりにシチリアへ ― 2016年08月18日 01:39
facebookに進出してからというもの、このブログも更新がおろそかになってしまった。
メインの南イタリア(カテゴリ"puglia")ネタも、そもそも現地に行けない状況が続いてどうにもならず。
それでも根性出して、この夏、シチリアに行くことにした。ここで現地情報を発信しようとすると難儀なので、リアルタイム版はfacebook↓に、後日談はコチラに書こうと思う。
https://www.facebook.com/hidetoshi.ikeda.121
すでにシチリアのフェデリーコⅡ関連の主な史跡は巡ったつもりだったのだけれど、あらためて調べてみると、わんさかと行きたい場所が出て来た。インターネットの途方もない力を感じないではいられない。
確かに、フェデリーコⅡの本拠地であったシチリアに、彼の関与した場所は数え切れないはず。それが、ネット情報の爆発的な拡大で、細かな情報までもが、遠く離れた異国に住む私の手元にも届くようになったというわけだ。
先が思いやられる展開なのだが、まあ行ってみましょ。
メインの南イタリア(カテゴリ"puglia")ネタも、そもそも現地に行けない状況が続いてどうにもならず。
それでも根性出して、この夏、シチリアに行くことにした。ここで現地情報を発信しようとすると難儀なので、リアルタイム版はfacebook↓に、後日談はコチラに書こうと思う。
https://www.facebook.com/hidetoshi.ikeda.121
すでにシチリアのフェデリーコⅡ関連の主な史跡は巡ったつもりだったのだけれど、あらためて調べてみると、わんさかと行きたい場所が出て来た。インターネットの途方もない力を感じないではいられない。
確かに、フェデリーコⅡの本拠地であったシチリアに、彼の関与した場所は数え切れないはず。それが、ネット情報の爆発的な拡大で、細かな情報までもが、遠く離れた異国に住む私の手元にも届くようになったというわけだ。
先が思いやられる展開なのだが、まあ行ってみましょ。
【後】この串焼きが食べたかったんだよ ― 2014年09月27日 00:28

2013年12月23日
レッチェで夜歩きを楽しみながら見つけたトラットリアで、最高の子羊料理に出会えた。
この串焼きタイプを初めて食べたのは2年ほど前、レッジョ・ディ・カラブリアの店でだった。確か、そのときは2本しか付いておらず、もっと食べたいという欲求を残したまま、レッジョを去ることになった。
http://ike.asablo.jp/blog/2012/04/06/6403086
たぶんレッジョを再び訪れることは当分ないだろうし、同じものにありつけるまでには5~6年かかるのではないかと思っていた。このときも注文時はただ、肉の塊数個を想像しながらAgnello alla grigliaを頼んだだけだった。
しかし、出てきたのは塊状の肉が見えなくなっちゃってるほどの串焼きである。あの2本を食べたいがために、レッジョに行こうと本気で考えていた私の目の前に、思いがけず、大量の串ものが登場! だから真っ先に、何本あるか数えてしまったよ!
この店は、テレビもついてないし、へたくそな画も飾っておらず、私が求める「正しいトラットリア」の基準(テレビとへたくそな画は必需品。これらがないと、しっくりこない)は満たしてはいない。しかも、盛りつけがキレイで、写真の後ろに少し写っている付け合わせの焼き野菜料理は、一つ一つのスライスされた野菜が皿に整然と並べられている。前菜に頼んだモッツァレラチーズも、ハーブやトマトがキレイに飾られていた。どうも「北」の香りがして、しっくりこないところがあった。
それでも、そんな難点を補って余りある串焼き! レッジョの店の3倍も盛ってあるし!
ああヤバイ、これでレッジョには行く理由がなくなってしまった(レッチェには行く理由ができたけどね)。
レッチェで夜歩きを楽しみながら見つけたトラットリアで、最高の子羊料理に出会えた。
この串焼きタイプを初めて食べたのは2年ほど前、レッジョ・ディ・カラブリアの店でだった。確か、そのときは2本しか付いておらず、もっと食べたいという欲求を残したまま、レッジョを去ることになった。
http://ike.asablo.jp/blog/2012/04/06/6403086
たぶんレッジョを再び訪れることは当分ないだろうし、同じものにありつけるまでには5~6年かかるのではないかと思っていた。このときも注文時はただ、肉の塊数個を想像しながらAgnello alla grigliaを頼んだだけだった。
しかし、出てきたのは塊状の肉が見えなくなっちゃってるほどの串焼きである。あの2本を食べたいがために、レッジョに行こうと本気で考えていた私の目の前に、思いがけず、大量の串ものが登場! だから真っ先に、何本あるか数えてしまったよ!
この店は、テレビもついてないし、へたくそな画も飾っておらず、私が求める「正しいトラットリア」の基準(テレビとへたくそな画は必需品。これらがないと、しっくりこない)は満たしてはいない。しかも、盛りつけがキレイで、写真の後ろに少し写っている付け合わせの焼き野菜料理は、一つ一つのスライスされた野菜が皿に整然と並べられている。前菜に頼んだモッツァレラチーズも、ハーブやトマトがキレイに飾られていた。どうも「北」の香りがして、しっくりこないところがあった。
それでも、そんな難点を補って余りある串焼き! レッジョの店の3倍も盛ってあるし!
ああヤバイ、これでレッジョには行く理由がなくなってしまった(レッチェには行く理由ができたけどね)。
【後】見知らぬ町ターラントの印象 ― 2014年09月19日 00:22

2013年12月20日
ターラントという街へ足を踏み入れたのは今回が初めてだった。列車で通過したことは何度もあったのだけれど。
しつこいほどのプーリア行脚を続けながら、これまでターラントを避けてきたのは、危険な街というイメージが強かったのと、フェデリーコ関連の見所がなかったためだった。だが今回は、Massafra訪問の拠点として、どうしてもターラントに宿泊する必要があった。
ターラントのイメージを悪くしていたもう一つの原因は、辻邦生氏が1967年に発表した「見知らぬ町にて」という作品の存在だった。この作品のモデルとなった町がターラントなのである。
何しろ、書き出しが「ひどく疲れていた」である。何とも暗い。この疲労感に最後まで付き合わされる。しかも、ストーリーが茫漠としていて、何度読んでも書かれている内容が読み取れない難解さがある。ほんと疲れる。
辻氏は、1959年にギリシャからシチリアに向かう列車の旅の途中で、ターラントで半日も足止めを食らったそうだ。「私の眼には、タラントの町は現実の町ではなく、実体のない影のように見えた」とのこと(『微光の道』新潮社)。
とにかく、行きたくなくなるような情報ばかりだったわけだ。
行ってみれば何のことはない、普通の街だったのだが。
新市街はとても都会的で明るく、北の街の雰囲気に近い感じがした。クリスマスの電飾がきれいで、大勢の人が夜遅くまで通りを散策していた。遅くまで酒飲みを続け、1人でホテルまで歩いて行っても、とくに危険を感じるようなことはなかった。
ただ、さすがに旧市街の方は凄みがあった。安全策をとって昼間のDuomo通りのみを散策するに留めたけれど、建物の壁は黒いし、脇道を覗いてみると廃墟になっている建物も目立つ。もっとも、少しずつ整備は進んでいるようなので、いつかは小綺麗で楽しい街に変身するのだろう。
ちなみに、辻氏が立ち寄ったと思われる国立博物館は長期閉館中だった。ターラントに関しては、また来る口実が残ったということになる。
ターラントという街へ足を踏み入れたのは今回が初めてだった。列車で通過したことは何度もあったのだけれど。
しつこいほどのプーリア行脚を続けながら、これまでターラントを避けてきたのは、危険な街というイメージが強かったのと、フェデリーコ関連の見所がなかったためだった。だが今回は、Massafra訪問の拠点として、どうしてもターラントに宿泊する必要があった。
ターラントのイメージを悪くしていたもう一つの原因は、辻邦生氏が1967年に発表した「見知らぬ町にて」という作品の存在だった。この作品のモデルとなった町がターラントなのである。
何しろ、書き出しが「ひどく疲れていた」である。何とも暗い。この疲労感に最後まで付き合わされる。しかも、ストーリーが茫漠としていて、何度読んでも書かれている内容が読み取れない難解さがある。ほんと疲れる。
辻氏は、1959年にギリシャからシチリアに向かう列車の旅の途中で、ターラントで半日も足止めを食らったそうだ。「私の眼には、タラントの町は現実の町ではなく、実体のない影のように見えた」とのこと(『微光の道』新潮社)。
とにかく、行きたくなくなるような情報ばかりだったわけだ。
行ってみれば何のことはない、普通の街だったのだが。
新市街はとても都会的で明るく、北の街の雰囲気に近い感じがした。クリスマスの電飾がきれいで、大勢の人が夜遅くまで通りを散策していた。遅くまで酒飲みを続け、1人でホテルまで歩いて行っても、とくに危険を感じるようなことはなかった。
ただ、さすがに旧市街の方は凄みがあった。安全策をとって昼間のDuomo通りのみを散策するに留めたけれど、建物の壁は黒いし、脇道を覗いてみると廃墟になっている建物も目立つ。もっとも、少しずつ整備は進んでいるようなので、いつかは小綺麗で楽しい街に変身するのだろう。
ちなみに、辻氏が立ち寄ったと思われる国立博物館は長期閉館中だった。ターラントに関しては、また来る口実が残ったということになる。
【後】バルレッタ城の広大な地下空間 ― 2014年09月14日 00:27

2013年12月19日
この写真はバルレッタの城のもの。前回の記事と同じ場所じゃありません。
フェデリーコの胸像との対面を果たし、屋上からの眺めも堪能し、さて帰ろうかという頃、例によって怪しい階段を発見してしまった。そう、地下への階段である。
下へ降りてみると、そこには広大な地下空間があった。
写真と同じような大空間が何カ所もあり、通路でつながっていた。通路といっても幅が広くて天井も高く、倉庫などに使用できそうな空間がずっと連なっているような感じ。
歩いても歩いても次の空間がみつかる。途中で「なぜ私はこんな地下室ばかりを彷徨っているんだろう」と馬鹿馬鹿しくもなり、帰る道を覚えているんだろうかと不安にもなったのだが、フェデリーコゆかりの城を途中で帰るわけにも行かない。最後の部屋まで歩き切ってから地上へ出た。おかげで地下の見学だけでかなり時間がかかってしまった。
城を出てから城全体をみてみると、どうやら私が地下と思っていた空間は、深く掘り下げられたお堀の底からみれば1階部分にあたるようだった。ということは、本当の地下室が別にあるのかも知れない。
巨大な城には、まだまだ入ったことのない空間がいくつもありそうだ。
この写真はバルレッタの城のもの。前回の記事と同じ場所じゃありません。
フェデリーコの胸像との対面を果たし、屋上からの眺めも堪能し、さて帰ろうかという頃、例によって怪しい階段を発見してしまった。そう、地下への階段である。
下へ降りてみると、そこには広大な地下空間があった。
写真と同じような大空間が何カ所もあり、通路でつながっていた。通路といっても幅が広くて天井も高く、倉庫などに使用できそうな空間がずっと連なっているような感じ。
歩いても歩いても次の空間がみつかる。途中で「なぜ私はこんな地下室ばかりを彷徨っているんだろう」と馬鹿馬鹿しくもなり、帰る道を覚えているんだろうかと不安にもなったのだが、フェデリーコゆかりの城を途中で帰るわけにも行かない。最後の部屋まで歩き切ってから地上へ出た。おかげで地下の見学だけでかなり時間がかかってしまった。
城を出てから城全体をみてみると、どうやら私が地下と思っていた空間は、深く掘り下げられたお堀の底からみれば1階部分にあたるようだった。ということは、本当の地下室が別にあるのかも知れない。
巨大な城には、まだまだ入ったことのない空間がいくつもありそうだ。
【後日談】妻たちのクリプタ ― 2014年09月06日 00:51

ここはアンドレア大聖堂の地下聖堂。
フェデリーコの2番目の正妻ヨランダ・ド・ブリエンヌ(エルサレム王位を継いでいた)、3番目の正妻イザベラ・オブ・イングランド(ジョン王の娘)が埋葬された場所である。
アンドレアの大聖堂には、2004年にも行ったことがあった。しかし、辿り着いた時間帯が悪くて中には入れなかった。まあ、開いてる時間を事前に調べないで立ち寄る私も悪いのだが・・・。
今回(2013年12月19日)は、バルレッタでフェデリコの胸像を拝んだ後で、バーリへの帰り道に立ち寄ってみることにした。
着いてみると、警備員風の制服を着ているお兄さんが出入り口を塞ぐようにして若い女性2人とおしゃべりをしており、そろそろ閉まる時間という雰囲気だった。その3人の間をサッとくぐり抜けて大聖堂に突入。しばらく大聖堂内を見学させてもらいながら、地下への入り口を探っていた。
だが、そのような入り口を指し示す看板などもなく、3周ほど中を巡ることになった。最終的にこの階段が怪しいと思って降りてみると、その空間の壁には、フェデリーコの妻2名の名前が書かれたパネルが貼ってあった。
私にとってみると、大聖堂の1階より上の部分よりも、この地下聖堂の方が重要である。
こんな写真を撮ったりしながら地下でずっとブラブラしていたら、警備のお兄さんが私を探しに来てくれた。どうやら門を閉める時間らしい。
こうして、ギリギリのタイミングで9年来の宿題をクリア。そしてまた、プーリアに出かける口実が一つ減った。
Massafra ― 2013年12月22日 00:15

またプーリアに行きたいと強く強く念じれば、何かしら口実が見つかるものである。
Massafraは、マテーラやグラヴィナ・イン・プーリアと同じく、Gravinaと呼ばれる谷の上にある街である。そのため、前から気になっていた街だった。
今回、Massafraの城が、フェデリーコ2世の手によるものではないかとの説(理由は塔が八角形だからというものらしい)があると聞き、ついにやっ来るべき口実がみつかった。その真偽はともかく、ロベルト・イル・グィスカルドの甥が建てたノルマン城がこの城の礎だったことは間違いないらしい。
今日は、例によって修復工事中につき、城の見学はできなかった。一部は図書館として利用されているのだが、それも土曜日だったために中に入れず。
ま、こんなもんでしょう。
Massafraは、この地域によrくある「白い街」の風情もあり、Gravinaの独特の景観もあり、なかなか魅力的な街だった。
やっと会えたフェデリーコの胸像 ― 2013年12月20日 06:38
やっとフェデリーコ2世の胸像に会えた。
場所はバルレッタの市民博物館。その存在は、ずっと前から知っていたのだけれど、なぜか観ることができなかった。
1998年にここに来たときは、展示品の整理のためとかで長期休館中だった(休館中でも観たという人もいるらしいが)。2011年に再チャレンジしたところ、休館日にあたっていてこれまた不発。当然、数日後に再々チャレンジをしようとしていたのだが、風邪をひいてしまって中止。
今回は事前に開館時間も調べ、ようやくこの部屋にたどり着けた。
ま、もうちょっと普通に展示しておいて欲しかった気もするけれど・・・。
しかも、この手前の2つの部屋には、フェデリーコ関係のかなり手の込んだ(かなり予算がつぎ込まれた)展示もあった。
いずれの部屋にも、立方体のディスプレイが真ん中に置かれ、壁にも映像が投影される装置が設えられている。
最初の部屋は、フェデリーコの鷹狩りや鳥類の研究に関する図が次々と映し出されていた(私が見たことのない絵も多数あって感動!)。次の部屋は、十字軍関係で、フェデリーコとイスラム君主のアル・カーミルが並んで描かれた有名な(?)絵などが浮かび上がる。
おそらく、この映像プログラムを最初から最後まで見切った人は、この一ヶ月の間において、私1人だけではないかと思う。
何しろ、アナウンスによる説明も、パネルによる説明も一切なしというマニア向けとしか思えない展示方法である。いくつもの画面には、同時に違う映像が映し出されるため、全部観るのに時間がかかる。
普通は立方体のディスプレイを横目に、ただ通り過ぎるだけだろう(もしかして、バルレッタ市民は郷土史の教育が徹底していて、あれこれ説明を受けなくても、その図像の意味がわかるのだろうか)。
ともあれ、10年越しの宿題をやっと片付けられた。
〔後〕友よ 寛大なる者よ ― 2013年05月07日 01:16

ヤッファ条約へとつながるアル・カーミルとフェデリーコの信頼関係は、フェデリーコが十字軍に出発する前から築かれていたらしい。
アル・カーミルは、皇帝として十字軍を率いるであろうフェデリーコに関心をもち、ファクルッディーンという外交官をパレルモに送った。フェデリーコが流暢なアラビア語を話し、先進的なイスラム文化を深く理解していることに驚嘆したファクルッディーンは、アル・カーミルに対し、フェデリーコが普通の王様でないことを報告する。
そして、この外交官を通じ、アル・カーミルとフェデリーコとの友情が発展していった。当初は、論理学や天文学といった学問に関する書簡の往復があり(これもアラビア語で行われたらしい)、アル・カーミルからは珍しい動物や天文観測儀がフェデリーコに贈られた。
この事前の書簡のやりとりを通して、フェデリーコは、軍事力によらず、交渉でエルサレムの奪還を実現できると踏んでいたようだ。
アル・カーミルとしては、その頃、エルサレムが仲の悪い弟のアル・ムアッザムの支配下にあったため、むしろ友人であるフェデリーコにエルサレムを占領してもらった方がよいと判断していたとも言われている。
フェデリーコは、それなりの見通しがあったため、身辺警護のための最小限度の軍隊しか現地に連れて行かなかったわけである。その意味では、ヤッファ条約による和平は、相互の利害がたまたま一致したために生まれたものでともいえる。
アル・カーミルもフェデリーコも、「聖地」を特別扱いせず、合理的な損得勘定で動いていたわけで、平和主義の思想に基づいてヤッファ条約を結んだわけではない。おそらくは、この方々が最も忌み嫌ったのは、その種の「主義」がもたらす馬鹿馬鹿しい争いごとだったのではないだろうか。
そんな二人の感覚は、キリスト教世界からもイスラム世界からも理解されなかった。
ちなみに、エルサレムのダビデの塔は、エルサレムの歴史を辿ることのできる博物館になっているけれど、フェデリーコのことには全く触れられていなかった。
イタリア半島部のプーリアで死んだフェデリーコの遺体はパレルモに運ばれ、大聖堂に葬られた。
埋葬された際に彼が身につけていたシャツの袖には、次のような言葉がアラビア語で刺繍されており、これはアル・カーミルへ宛てたものだと言われている。なぜアル・カーミルへのものなのか、その根拠はよくわからないが(友達がほかにはいなかったからだろうか)、本当だとしたら、泣ける話である。
友よ 寛大なる者よ
誠実なる者よ 富める者よ
勝利者よ
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