帰れなかった「辻邦生展」2006年07月03日 21:38


自宅の1階のガラスの扉付きの書棚には、忙しいときに触ってはいけない本と、忙しいときに触ってはいけないカメラのレンズが収納されている。
その中で最も危険なのが、辻邦生氏の「ある生涯の七つの場所」という短編シリーズである。

これは、計100編からなる短編集で、最初の1編が74年に発表され、88年に完結した。ホントご苦労様です。この全8巻の短編集は、1つ1つの短編が完成された作品として成立していながら、互いに関連性ももっていて、壮大な長編のようなつくりになっている。
辻氏の言葉によれば、「これは百の短編をモザイク状に組み合わせて、ある大きな社会的ロマネスクの壁画を作ろうと企てたもの」なのだそうだ。

厄介なのは、どれかの本を開いて、1つでも短編を読み始めてしまうと、面白いものだから全部読まないではいられなくなってしまうところ。
そんな本はいくらでもあると言われそうだが、さらに厄介なのは、短編の集合体でありながら、個々の短編が互いに関連性をもっていることだ。どこかの箇所で出てきた登場人物が唐突に別の短編に現れたり、どこかで読んだ記憶のある事件が、別の短編で大きな意味をもっていたりする。

「この人のこと、前にも読んだ気がするけど、誰だっけ?」という疑問にぶち当たり、全8巻のどこかを探し始め、そうやっているうちに、たまたま目にした3巻目の5番目あたりの別の登場人物の消息が気になってそれを読み始め・・・とやっているうちに、100編の短編の中をぐるぐると迷い始めるわけである。
確か、辻氏自身が、どこから読み始めてもよいと仰っていたくらいだから、そういう読み方が相応しい本なのである。だから、最後まで行くのが大変。

で、6月の末は仕事が溜まって忙しかった時期だった。ようやく今日になって、溜まった仕事を片付けられるようになってきた。
だから、一階の書棚には決して近づかなかったのだが、思わぬ伏兵に出くわすことになった。

図書館に取り寄せてもらった資料を取りに行ったときのこと、「辻邦生展 4月29日(土)~6月25日(日) 山梨県立文学館」なるパンフが!

気づいたのは6月20日頃だった。行けるのは次の土日しかない。でも、片付けるべき仕事が溜まっていた時期で、時間的な余裕がない。とても山梨県の甲府まで足を伸ばせない・・・。

とかなんとか、悩みに悩んだ末ではあるが、終了の前日となる6月24(土)に甲府まで出かけた。パソコンを電車の中に持ち込めば仕事上のロスは少なくて済むし、展示物も30分もあれば観られると踏んでのことだった。
そう、到着したのは午後1時頃。ざっととはいえ、40分ほどでそれなりに展示物(直筆原稿、手紙、写真など)をみることができた。
展示品のカタログを買ったが、中でも重宝しそうだったのが、辻氏が作成していた短編集「ある生涯の七つの場所」の見取り図。作家自身も、壮大な短編集の大海原で迷わぬよう、ちゃんと見取り図を描いていたのだ(できれば、これと同じものを本に付けておいて欲しかった)。読む方も大変だが、書く方はもっと大変だったに違いない。

そして午後1時45分頃、そろそろ帰る時間と思ったときのことだった。
出口付近にあった
「2時から辻邦生氏の講演会のビデオ上映します。」の張り紙が!
「作家自身の朗読テープ(20分)が聞けます」の張り紙が!
目にとまった。

2時まではあと15分。なんてこった。20分のテープを聴く余裕がないじゃないかっ!。
というわけで、結局ビデオを観て、その後でテープも聴きました。全部終わって帰りのバスに乗れたのは5時近く。

とはいえ、帰れなくてイライラしていたかというと、全くそんなことはなかった。やはり、辻文学の真骨頂は、読者をそんなイライラから解放してくれるところにある。
そのビデオとテープですっかり「洗脳」された私は、とりあえず仕事のことなどどうでもよくなり、余裕たっぷりの気分で帰路についたわけである。
まあ、その気持ちの余裕が持続したのはせいぜい1日くらいのものでしたが・・・。