「市民」から人へ。人から市民へ。2009年05月21日 02:24

今日からいよいよ裁判員制度が実施される。せっかくなので、ここで一発言っておきたいと思う。
この制度については、「市民」が司法に参加する制度という言い方があるけれど、もうその言い方はやめにして、ちゃんと現実に即した議論を始めようじゃないですか、と。

そもそも私たちは、「市民」という言葉を、特別な意味を込めて使っていることが多い。善良であり、常識を備えており、公平な判断ができ、庶民的であって、毅然として権力を批判できる・・・といった肯定的な意味を込めている。
だから、裁判員制度についての議論が始まったとき、これに反対したのは一部の専門家ぐらいのものだった。だいたい、「市民」が司法に参加するのだから、良い制度だとしか言いようがなかったわけである。
今になって振り返ってみると、このところ議論されている問題点をいち早く的確に指摘していたのは当時の反対派だったのだが、「市民」の敵である法務省をはじめとする反対派の意見は、あまり顧みられることはなかった。

私は、裁判員制度が始まっても、事実認定の精度は、良くもならないし悪くもならないと思っている。
おそらく、冤罪がなくなって格段に良くなることもないし、逆に、冤罪が増えることもないだろう。素人でも6人集まれば、裁判官並みの精度は保たれるだろうし、一方で、裁判員も同じ人間である以上、裁判官と同じ程度には間違えるはず。
しかし、「市民」が参加するという文脈で議論が始まると、そういう冷めた予想は全く相手にされなくなる。「非市民」である裁判官は、常識がなく、不公平な判断をして間違えたかも知れないが、「市民」は全く間違えないか、あまり間違えないという前提で議論が進んでしまう。なぜなら、「市民」であれば常識に基づいて公平な判断を下すはずだから・・・と。
昨年、今さらのように延期した方がよいとか言い出した弁護士会も、もともとは推進派の急先鋒だった。
裁判官が相手では、被告人の言い分をまともに聞いてくれないし、弁護側が証人申請しても採用してくれない。けれど、「市民」が参加してくれれば、被告人の置かれてきた境遇とか、やりきれない気持ちとか、きっと庶民目線で理解してくれるに違いないという、楽観的な思惑があったように思う。

ところが、制度導入が決まって以来、こういった「市民」像を念頭に置いて議論を進めてきた推進派が(とくに弁護士会あたりが)、おそらくは一番驚いたであろう現象が起きてしまった。
「市民」は弱い者の味方であるから、権力者である裁判官とは違って弱者の気持ちを理解できるという前提がある。推進派が期待したのは、国家権力によって身柄を拘束され、弱い立場に立つことになった被告人への理解だったはずだ。しかし、世間の常識からすれば、被告人は悪い弱者でしかない。本当の弱者は被害者なのであって、結局、被害者側の希望を叶えてあげるのが「市民感覚」と理解されてしまった。
それに、人を死なせておきながら言い訳をするのは反省していない証拠であり、まして否認したり黙秘して真相を語らないのは卑怯だ、と評価するのが「市民の常識」である。
この「市民感覚」と「市民の常識」に沿ったかたちで、凄まじい勢いで厳罰化が進んだのがこの数年間の動きだった。
裁判員制度の下で「市民」が判断すれば、無期懲役は死刑になったはずといった論評が巻き起こり、今や日本は、世界に希な死刑大国になり、諸外国から注意されるところまで行ってしまった。
それだけではなく、飲酒運転で死亡事故を起こしたら、7年程度の懲役刑とは非常識であり、25年でも足りないというのが「市民の常識」になった。例えば、故意に人を傷つけ、その相手がたまたま死んでしまったとすると傷害致死罪になるが、その場合の量刑の相場は、2~3年の懲役である。5年を超えることはほとんどない。つまり、過ちで人を死なせたに過ぎない人に対する刑罰の相場が、一気に、意図的に人を傷つけ、そのはずみで人を死なせた乱暴者に対する刑罰の何倍にもなったわけである(いや「市民感覚」からすれば、傷害致死罪の量刑が軽すぎるということになるのか)。
最近の日本が死刑大国になってしまったのは、裁判員制度のせいだけではないだろう。けれど、ここ数年、ほとんどのマスメディアが「もっと死刑を」「もっと厳罰を」と金切り声を上げ、この制度にかこつけた厳罰論を主張し続けてきたのは事実だ。
厳罰化と必罰化とは紙一重でしかない。厳罰化は必罰化を生み、そして、必罰化は冤罪を生む。
いまだに「市民」の文脈で議論したがる人は、「市民が無罪を主張しているのに、裁判官が死刑の結論を市民に押しつける」ような事態を心配しているようだが、ここでメディアが表現する「市民感覚」がその通りだとすると、その逆の事態を心配しなければならなくなったわけである。
マスメディアが「厳罰化の流れ」と、まるで他人事のように表現するこの現象は、私には恐怖そのものだった。
これは「流れ」だから、誰にも責任がなく、誰も反省しないということなのだろう。そんな流れに乗せられて、生きた人間が次々と死刑台に送られる。そんな恐るべき国になってしまった。

しかし、実際に制度のスタートが秒読み段階に入ると、多少はこの恐怖感も和らぐようになった。
なぜかというと、普通の人を念頭に置いた、現実的な議論が復活するようになったからである。
世論調査をやってみると、参加したくないという人が8割ほどいることがわかってきた。司法を民主化するために積極的に参加したいと考えるのが「市民」のはずなのだが、これはなんとも「市民」らしくない答えである。
次いで、自分が死刑の判断をするのは辛いという意見が、かなり広がりをみせるようになってきた。ちょっと前までは、殺人者に無期懲役とはとんでもない話で、死刑を求めるのが「市民感覚」とされていたはずである。「市民」なら、これまでの判例にとらわれた頭の硬い裁判官の主張を跳ね返し、堂々と死刑を主張し、正義を実現するはずだった。正義の味方たる「市民」にしては、なんとも頼りない感じになってきてしまったわけである。
新聞の社説などを注意深く読んでみると、「市民」という言葉と「人」という言葉が使い分けられていることがわかる。参加したくない人は「人」であり、興味すらない人は当然「人」として表現される。一方、これで司法を変えられるとか立派な意見を述べる人は「市民」とされる。しかし、世論調査の結果は、「市民」よりもただの「人」の方が圧倒的に多いことを示している。
こうした多数派の傾向を認識したマスメディアは、かつては一切無視するか否定してきた制度の問題点の発掘に励むようになった。おかげで、現実的な論点が日の目を見るようになり、多少はまともな議論が聞けるようになってきたというわけである。
結局、「市民」という言葉で議論している間には見えなかった現実が、ようやく皆に見えるようになったということではないだろうか。
私たちは「市民」ではなく、ただの普通の人でしかなかったのである。裁判官に向かって、お前たちは「市民的」でないから選手交代だと、外野席から野次を飛ばすのは簡単だけれど、実は今、私たちが立とうとしていたのは、玉が飛んでくるグラウンドの真直中だったのだ。

だから本当は、普通の人が参加するという現実的で具体的な前提の上で制度の問題点を考え、あらかじめ制度への理解を広めておくことが必要だったのだと思う。
例えば、こんな問題を皆で真剣に考える必要があったと私は思っている。もしかすると真犯人かも知れないが、証拠は十分とは言えないとき、あなたならどうするか。
正解は無罪であり、金賞がもらえる模範解答は「裁判官が有罪と言っても無罪を主張する」ということになるが、これが実は、死刑判決を出すより難しい。誰がみても無実とわかるような事件は、そもそも起訴されない。それなりに証拠が揃っているから起訴されるのだから。
そのため、無罪でよいと思っても、もしかすると真犯人かも知れないという気持ちが必ず残るはず。世間は死刑を期待しているし、もし無罪という判断が間違っていたら被害者に申し訳ない。かといって、もし無実の人を死刑にしてしまったら・・・さてどうする?
しかし、「市民」なら的確に真実を見極めることができるという前提の下では、こういう問題はそもそも起こらないことになっている。誰もが正解できる模範解答は用意されているものの、その結論を出す過程で生じる悩みを共有し、覚悟を決めるための議論が、ほとんどなされてこなかった。

とはいえ、前にも言ったように、問題は多々あっても、裁判の中身が悪くなることはないと思う。
私は当初、どちらかというと反対だった。けれど、半年前くらいから世間が騒がしくなり、問題ありの声が大きくなるにつれ、ひねくれ者の私は、大賛成に転じている。
実は、この制度には、あまり議論されていなかったところに、なかなか味のある仕掛けが(こっそりと)してある。制度についての理解が進むにつれて、私もあまり心配しなくてもよいと思うようになった。
それに、このところの現実的な議論は、参加を嫌がる普通の人に対して、責任ある市民としての覚悟を促すものになってきている。これなら、やった方がいいし、ちゃんと続くようにして欲しい。
一つ裁判官に注文を付けるとすれば、難しい事件にあたってしまったなら、「証拠が十分でないと思うなら、勇気をもって無罪と言ってください」と、悩める裁判員を励まして欲しいと思う。同じ悩みをもつ仲間として裁判員を迎え、経験豊富なプロの立場からアドバイスして欲しいのである。
そしておそらくは、その悩みを裁判官とともに乗り越え、覚悟をもって結論を出した裁判員だけが、まさに「 」でくくる必要のない市民になれるのだと私は思う。

私は今こう思っている。
この制度は、「市民」が参加するからよいのではない。人を、本物の市民にするからよい制度なのだ。

微調整はできるが前が見えない??2009年05月17日 14:06

先週の金曜日(5/15)、2006年に福岡で起きた飲酒運転による死亡事故について、福岡高裁で判決があった。第1審では、危険運転致死傷罪の適用を否定したが、今回の判決では、その適用が認められ、何と懲役20年とか。
第1審判決のとき、このブログにも感想を書いたけれど、やはり私は、むやみに危険運転致死傷罪の適用をしてはいけないと思う。↓
http://ike.asablo.jp/blog/2008/01/12/2556999

それで、高裁で判断が覆った理由なのだが、新聞で読んで仰天してしまった。
第一審では、事故原因は被告人の脇見運転であったとして、飲酒によって「正常な運転」ができなかったものではないと認定されていた。この点を否定した高裁の判断がどうも合点が行かない。

これまで報道によると、判決骨子は次のようなもの。
道路にはこう配があったので、直進するにはハンドルの微修正が必要で、前を向いてないと運転は困難。だから、長時間の脇見とした1審判決は誤り。
前の被害者の車を間近に迫るまで認識できない状態にあったから、アルコールの影響で正常な運転が困難な状態。だから危険運転致死傷罪が成立する。

道路に勾配があっても、ハンドルの微調整ができるので時速100キロで走れる。でも、前はよく見えない酔っぱらいドライバー・・・って何それ??。

前方車両とぶつかる危険があるとすれば、それは自分の死の危険でもある。間近に迫るまで認識できない状態、つまりは自分の死の危険さえも認識できないというのは、かなりの酩酊状態。確かに、その通りだとすれば、まさに正常ではない状態だと言える。
しかし、そこまで酔ってしまった人が、時速100キロというスピードの中、的確なハンドルの微調整ができるのだろうか。普通、微調整ができずに蛇行運転になってしまうはず。
蛇行しながら100キロのスピードを維持するというのも、これまた大変な話で、相当なドライビングテクニックを要する。だから、それができたとしたら、正常でないとは言えないことになってしまう。

報道されている情報が少ないため、それが理由の全てだったのかわからない面もあるが、微調整ができたとしながら正常ではなかったと言うこの理屈は、滅茶苦茶だと思う。
それでも、この滅茶苦茶ぶりを批判する声はほとんど聞こえて来ない。むしろ、高裁判決への賞賛の声が多い。

だから私は恐ろしい。言論は大丈夫か?

私も「言論は大丈夫か」と思ってしまったよ2009年05月02日 14:20

先日の4月26日の「サンデープロジェクト」というテレビ番組で、こんな問題が取り上げられていた。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/contents/backnumber/0310/

それは、2005年に日米犯罪人引渡条約に基づいて、アメリカに引き渡された日本人女性の悲劇についての問題提起。
「自国民の生命、自由を守るのが存在意義であるはずの政府。日本の司法は、いったい誰のため、何のために存在しているのか。徹底検証する。」という、この番組の説明によれば、経緯は概ね次のとおり。
この女性は、新たなビジネスを始めるためマンハッタンの事務所で活動をしていたところ、9.11テロによってその事務所が罹災した。その後、被災者向けの低利ローンの制度があることを知り、ローンの申請手続をとった。だが、役所からの連絡で、手続を依頼していた弁護士が勝手に100万ドルものローン申請をしていたことがわかり、即座に申請を取り下げた。
ところが、アメリカの検察がこれを罹災の事実のない虚偽申請だとして起訴し、この女性の身柄引き渡しを日本に求めるに至った。そして、「日本の法務省、検察庁、そして東京高裁は、アメリカ政府の言い分を検証しようとももせず」安易に引渡を認めてしまった。
アメリカに引き渡された女性は無実を訴えたが、現地の弁護士もこれを相手にせず、有罪答弁をして司法取引に応じるよう、彼女を説得するばかりだったという。そこで、その弁護士を解任したが、2人目も同様だったため解任した。
しかし、3人目の弁護士も同じことを言う。弁護士たちが言うには、外国人がテロに便乗して詐欺行為をしたという起訴事実については、アメリカ人の反感が強く、陪審で無罪を勝ち取るのは無理だとのこと。そのうち、勝手に高額申請をやっていた弁護士が、司法取引に応じて、その女性との共謀を認める供述をするに至った。結局、たとえ申請を取り下げていても、共謀していただけで共謀罪に問われるのだと説得され、その女性本人もあきらめざるを得なくなり、有罪答弁をして服役することになった。

検察側の唯一の証拠は、その女性が事業のために出入りしていたマンハッタンの事務所のビル管理人の証言。実際、番組のスタッフがその管理人に電話をかけて話を聞いていたが、確かに管理人は、その女性が9.11以前に事務所に出入りしていた事実はないと主張している。
しかし、「我々はアメリカで関係者の取材を試みた。すると、無実を訴える彼女の主張を裏付ける事実が次々と明らかとなった。」とのこと。
番組が入手した「一本のビデオテープ」には、9.11テロが起きて間もなく、その女性が事務所のビルに入って行く姿や、相談窓口で、ローン申請について説明を受ける彼女の姿が映っていた。
しかも、彼女の無実を示す決定的証拠があったという。それは、その女性自らが、申請を取り下げたときの記録。しかし、検察はこの文書には触れようとしなかった・・・。

なるほど、私も、制度のあり方として、日本側の引渡の手続に問題があって、とくに反論の機会が十分でないことについては同じ意見だ。
ただ、このストーリーによると、この女性は完全に無実で、アメリカの検察も3人の弁護士も、日本の法務省も高等裁判所も、彼女の無実を見抜けず、適当な証拠だけで刑務所送りにしてしまったアホということになるが、本当にそうだったのか・・・と、ひねくれ者の私なんかは思ってしまった。
証拠に直接触れたわけではないから、この女性が有罪なのか無実なのか、私には判断できない。ただし、彼女を有罪にしてしまった連中はケシカラヌと、非難できるような根拠が番組で示されたのかというと、ほとんど示されなかったと私は思う。少なくとも、この番組で提供された情報だけでは、この番組の主張には同意できない。
というわけで今回は、司法関係者の怠慢や事務所管理人の偽証に対し、この番組が下した「有罪」判定に対して、彼らの「冤罪」をここで訴えたいと思う。

まず、番組を観ていて、疑問に思った点がいくつかあった。
女性が9.11以前に、その事務所で活動していたのだとすれば、賃貸借契約書があるはずだが、それがない。仮にそれがなくても、取引先との連絡記録があったり、電話設置の記録あったり、電力会社との契約があったり、机を買ったときの店の記録があったり、引っ越しのための運送会社の記録があったり、何かしら痕跡があるはず。それが番組で示されなかったのはなぜなのか?
しかも、番組が入手したとかいう「一本のビデオテープ」は、9.11より後のもので、肝心の事務所内部の様子が写し出されていない。粉塵を被ったというビルに入って行く女性の姿と、ビルから出て来た女性が、取材陣に内部の報告をしている姿が映ってるだけ。つまり、ビルの中に本当に女性の事務所があって、彼女の所持品などがそこに存在したのかすらわからない。この映像だけで、ビル管理人がウソの証言をしたと決めつけることができるのだろうか?
これで真実が「次々と明らかとなった」のと言われても、首をかしげるほかはない。むしろ、取材の結果、無実を裏付ける証拠はあまり出てこなかったけれど、ビルの管理人に電話してみたり、担当弁護士にインタビューしてみたら、結局は有罪を裏付ける証言や意見だけが出て来てしまったというたというのが私の感想だった。

それで気になって、引渡がなされた2005年当時の新聞記事を調べてみると(信濃毎日2005/10/14)、どうも、引渡の理由となった容疑は3つほどあったようなのだ。確かに一つは、この取り下げられたローン申請に関するものだが、残りの2つは、援助団体と赤十字から小切手を詐取した容疑だった。
また、記事によれば、女性とともに、同じ容疑で無職の男性もアメリカに引き渡されている。しかし、この「無職の男性」についても、番組で取り上げられることはなかった。なぜ、番組ではこの重要人物についての説明がないのか? この「無職の男性」と、勝手に高額ローン申請をしたとされる弁護士が同一人物なのか否かもよくわからない。
いずれにせよ、この記事のとおりだとすれば、ローン申請を一つ取り下げようが、その一つが無実だろうが、ほかの2つについて有罪を示す証拠があれば、アメリカの検察は起訴したろうし、日本側も引渡を認めたろうし、アメリカの弁護士たちも司法取引を強く勧めたことだろう。
もちろん、その2つの容疑についても、いい加減な審理がされた可能性は否定できないけれど、番組がその点に全く触れなかったのはなぜ?

番組が描いたストーリーは、外国人によるテロ便乗犯罪に偏見をもつと思われるビル管理人の証言を唯一の証拠に、司法関係者たちは揃いも揃って、申請が取り下げられたという明白な事実を無視し、彼女の訴えに全く耳を貸さなかったというもの。だから日本の法務省や裁判所はデタラメだとか、アメリカの司法は9.11以降おかしくなったとか言うのだけれど、このケースをもとにしてそう言われても、何だかピンと来ない。
問題点を浮かび上がらせるために、単純でわかりやすいストーリーを視聴者に示すことも重要だろうとは思う。問題を解決するために、あいつらが悪いと金切り声を上げることも、ときには必要なのだろう。しかし、「あなたたち、大事なことを視聴者に隠してませんか?」というのが私の感想だ。
この種の話題で、最近、番組出演者が口にする常套句は「日本でも間もなく裁判員制度が始まりますから・・・」というものだが、いやいや、そういう今だからこそ、こういう番組づくりをしてはいけないのでは?
自分の主張に都合のよい証拠だけを集め、それに反する証拠や事情は全部切り捨ててしまい、アイツらが悪いと言い立てる。この番組がとった態度こそが、「えん罪の温床」なのでは?

この番組には、こんなタイトルが付いていた。
   特集 シリーズ 「言論は大丈夫か」17
   『 誰のための司法か 』 - 「日米条約」 と 「日本の司法」 -

ちなみに、その前週の放送(特集 シリーズ 「言論は大丈夫か」16)を紹介するHPには、なかなかいいことが書いてあった。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/contents/backnumber/0309/
「なぜ検察は証拠隠しを行うのか・・・?
そこには「被告を有罪にするための証拠しか出さない」、すなわち「最良証拠主義」が存在する
裁判員として参加する市民が、えん罪に加担させられないためには、どうすれば良いのか
えん罪の温床となる検察の証拠隠しを徹底追及する!」

患者に向かって「満足してますか?」???2008年08月23日 12:39

これはもう十数年以上前の話になるが、ネット上の会議室で(インターネット以前の「パソコン通信」の時代のこと)、総合病院内で顧客満足度調査を計画してるので、アンケート事項について皆の意見を集めたいという質問をアップした人がいた。
それに対し、私は、医療サービスに「満足度」などというという指標を持ち込むのは危険だし、アンケートの質問事項はほとんどが的外れだと意見したことがある(私も若かったですな)。

極端な例を言えば、手当ての甲斐なく患者が死んでしまったとして、遺族に「満足している」「満足していない」「どちらともいえない」だのと質問を向けるのは馬鹿げている。
問題は、間違いのない医療行為がなされ、きちんとした患者や家族への説明があって、「納得」の行くサービスが提供されたかだと思う。確かに、英語では「満足」も「納得」も"Satisfaction"で表現するようだが、日本語で「満足」と訳してしまうと、奇妙なニュアンスが漂ってしまう。

そもそも私は、顧客満足度調査というものが大嫌いである。あらゆる事柄を「満足ですか?」と聞く、そのボキャブラリーの欠如と言葉遣いのセンスのなさが全くもって許せない。
その質問者が提案していたアンケート項目の中には、病院と自宅との距離について質問する項目があったが、それは便利・不便、遠い・近、で答えるべき項目だと思う。そこで私は、そんなことを「満足ですか?」と聞くのは日本語としておかしい、と思って回答の選択肢を変えるように意見した。まあ当然のことながら、完全に無視されてしまったが。

顧客満足度調査なるものが嫌いなもう一つの理由は、大勢の人の意見は正しいという、民主主義的な正義をちらつかせ、当事者に合理的な反論を許さないという暴力が隠されていることだ。
私が、その調査に疑問を投げかける発言をしていたのは、その調査を計画していた人の意図の中に、そうした暴力を感じていたからでもある。
どうも、その総合病院内では、とくにクレームが多く、患者から評判が悪い医師がいたそうだだが、その人は、アンケート結果をつきつけて「改善」を求めようとしていたようだ。
それ自体は一般論としては決して悪い意図ではないのだが、その標的は「産婦人科」の医師だった。

病院というところには、普通、病気や怪我を放っておくと大変なことになりそうな人や、死にかけた人がやってくる。そうした不幸を背負った人を助けてやるのが医者の仕事である。
しかし、産婦人科には全く違う人がやってくる。出産は病気ではない。やって来るのは不幸な人ではなく、一日も早くお祝いをしたい人たちだ。だから、問題が起きたときのリアクションの質が全く違う。何か悪い結果が起きたとして、病気が原因でないとすれば、その原因は医療行為以外には考えられないし、御目出度が暗転したときに受けるショックは大きい。「このままだと余命1ヶ月ですが、手術をしても成功率は10%です。」と説明したうえで手術に失敗しても、大概の人は納得するだろう。けれど、出産がらみの事故には納得できないのが普通だと思う。どんなに説明を受けたところで、どうして自分に、自分の家族にこんなことが、という思いが残るはず。
だからこそ、丁寧なケアが必要ということになるが、そのためには多くの医師や看護師を投入しなければ無理な話だと思う。

顧客満足度の調査で「産婦人科」に悪い結果が出るのはやむを得ないし、そんな結果を突きつけ、その医師の個性の問題として「改善」を求めてしまったら、事態はさらに悪くなるのではないかと私は思った。
周りから攻撃を受けるポジションにいる人というのは、余程の人格者でもない限り、それに対抗するための態度が身に染みついてしまうものだ。病院の外部からだけでなく、無理解な内部の人間にまで攻撃されてしまったら、ますます態度を硬化させてしまうのではないのか。
しかし、そのネット上の会議室の参加者の中で、こうした考えを理解してくれた人は皆無だったようだ。会議室の他の発言者の意見は、医療もサービス業の一種なのだから、顧客を満足させるために努力すべきで、そうした調査は是非やるべきだというものだった。この「正しい調査」について、イチャモンを付けていたのは、ひねくれ者の私だけであった。

最近になって、産科医不足という問題が注目されるようになってきたが、それまでは私も、こんなにひどい状況になっているとは知らなかった。
過剰な改善要求やら責任追及論やらが、私たち自身の生活に跳ね返って来ることを示した、わかりやすい一例になったのではないかと思う。
悪い結果が起きると、誰かの責任を厳しく追及しないと気が済まないのが私たちの習性だけれど、実は、その刃の矛先は常に、私たち自身にも向けられているのである。

今週、2005年に福島県立大野病院で起きた医療事故について、業務上過失致死罪で起訴された被告人医師への無罪判決が言い渡された。たぶん、5年くらい前であれば、無罪はケシカラヌという論調一色になっていたのではないだろうか。
今回、論評は様々だが、ようやくまともな議論ができる雰囲気になった気がする。まあ、医療事故に限っての話ではあるけれど。

浄化のための死2008年05月13日 19:19

今月9日の国連人権理事会で、日本の人権状況が審査された際、13カ国から死刑執行停止の要求がなされたそうだ。昨日の新聞にもその記事が小さく載っていた。

最近では、死刑大国アメリカでも、州レベルで死刑廃止への動きがあるし(州裁判所の違憲判決、ニュージャージー州での廃止など)、全体的に執行数が減少している。もう一つの大国と言えば中国だが、こちらもオリンピックを間近にひかえ、執行数は激減していると聞く。日本とは桁が違うとはいえ、減少傾向にあることは確かだ。
その一方で、このところ日本では、死刑判決数、執行数がいずれも増加しているうえに、先日、差戻審で判決があった光市母子殺害事件のように、18歳の少年でも死刑ありというかたちで、適用対象が拡大している。
今回の国連人権理事会での審査では、こうした日本での死刑拡大路線について、強い懸念が各国から表明されたということらしい。

日本政府側は「世論の支持を受けている」と反論したそうだが、確かに、近年の拡大路線は、世論に沿ったものだと思う。光市母子殺害事件では、第1審、控訴審での無期懲役の判決が世論による厳しい非難の対象となった。この事件ではとくに、世論に沿ったかたちで先日の死刑判決が出たという印象が強い。

それで、その世論なのだが、被害者遺族が死刑を求めるのは当然の心情だとしても、遺族以外の、全く応報する立場にない人々が、こぞって死刑を求めるのはなぜだろうか。
これは私たち日本人がもっている中世的な心性と関係しているのではないかと、私は考えている。ここでの中世的な心性というのは、呪術的なものの考え方と言ってもいい。犯罪を穢れと受け止め、処刑を払い清めの儀式と受け止める古い意識を、現代の私たちはなお、強固に持ち続けているのではないか、ということだ。
人殺しといった忌むべき事態が起きてしまうと、私たちは、容易には消すことのできない穢れが生じたものと受け止める。では、この殺人行為によって生まれた穢れは、どうしたら払い清めることができるのだろうか。おそらくは、その問に対する私たちの唯一の答えが、死刑なのである。

一人でも人を殺した以上、死刑になって当たり前と考える人は多い。その至極当然の結論のために、いちいち理由を説明し、申し開きをする必要などないと考える人も多い。しかし、その「当たり前」を支えているのが、こうした中世的心性なのではないかと、私は思っている。それだけで説明するのは無理とは思うが、私たちの根っ子にあるその心性が、死刑を支えている一つの要因だという確信はある。
そして、この中世的心性を前にしては、ヨーロッパ流の合理的な議論など、ほとんど役に立たないことに注意する必要があると思っている。

例えば、「死刑を廃止したら犯罪者が増える」と主張する人に向かって、死刑を廃止しても、犯罪は増えなかったという廃止国の統計を示したところで、何の説得力も持たない。私たちが心の底で懸念しているのは、犯罪が増えることではなく、穢れが浄化されない事態を恐れているのだから。
また、誤判の問題は死刑廃止論の大きな柱だが、払い清めの儀式においては、処刑される人物が真犯人かどうかはあまり関係がない。人柱のような生贄の例を想像してみればわかると思うが、人の死をもって払い清めること自体に意義があるとすれば、真犯人を正しく処刑すべきことは二次的な問題になってしまう。
冤罪を見抜けなかった裁判官を、私たちは単純な論理で非難するけれど、事はそれほど簡単ではない。無罪の疑いもあるけれど有罪の疑いもある被告人(全く疑いのない人はそもそも捕まらない)に対して、無罪判決を出すためには、実はかなりの勇気と決断力を必要とする。自らの中世的心性と激しく格闘しなければならないからだ。無罪判決とは、犯罪の浄化を放棄することであって、そんな事態を招くくらいなら、ともかく、その少しでも有罪の疑いのある被告人を処刑する道を、人は選んでしまうものなのだ。

ここで話は飛ぶけれど、この死に穢れを浄化する意味を見出す心性は、自殺とも関連しているのではないかと思う。
借金を苦にして首をつる人は多い。しかし、払えない借金など、払わなければいいだけのこと。今どきの大手サラ金業者は、悪辣な取り立てをほとんどしなくなった。それでも人は、借金を苦にして自ら死を選ぶ。
おそらくは、自らの死をもって債務を「払う」ためだろう。取り立てへの恐怖が彼らを死に追いやるのではない。債務という自分にまとわりついた穢れが、彼らを押しつぶしてしまうのである。自殺の場面でも、借金にまみれ、穢れた我が身を「払い」清めるという中世的心性が働いているのではないかと思う。
このことは、借金苦のケースだけに当てはまるわけではない。不幸、不運にまみれた自分でも、家族やカイシャに迷惑をかけた自分でも、死が自らを浄化してくれるのなら、誰もが美しく死ねるということだ。
だから、命を大切にと言ってみたところで、そんな説教など通用しないのが私たちの社会なのである。日本での自殺率が異常に高いのは、世界的にみて、私たちが特別に不幸な民族だからではない。
私はこう思っている。死に聖なる意味(祓い清め)を与えてしまう社会だからではないのか、と。

近代以降のヨーロッパでは、この種の中世的心性が「整理」されたと言われている。
歴史的にみれば、手の込んだ残虐な処刑方法や強烈な身分差別(賤視)を得意としたのは彼らの方だが、今や人道主義の旗手として、死刑や差別を非常に問題視している。
それに比べると、移民の国であるアメリカは、中世的心性を残した社会だと言われている。武器を個人が保有することが当然の権利とみなされ、一種の私闘が肯定されているのはその一例だ。
中世を整理できたヨーロッパ各国が死刑廃止に突き進む一方で、中世的なアメリカや日本で死刑が当然の制度とされているのは、偶然の一致ではないと思う。

私は、中世的心性を整理できたヨーロッパの方が特異であって、そうでない方が世界の普通の人々なのだとは思う。私たちの考え方があまりに普通であるために、直しようがないのではないかとも思う。私自身は直した方がいいとは思うものの、皆でヨーロッパ流の考え方を共有するのは難しいだろうし、もしそうなってしまったら、それはそれで気持ち悪いかも知れない。
それだけに、実を言うと、死刑や自殺といった悲劇を止めるために、何をすればいいのか、さっぱり分からない。

ただ、それでも言っておかなくちゃと思うのは、自殺はやめなさいと少年に説教しつつ、少年にも死刑を、と叫んでしまったら何にもならないということ。少年にも死刑を、と叫んでしまったら、霊感商法の被害など食い止められないということ。
そして、少年にも死刑を、と叫ぶあなたの心の中に、あなたが激しく非難する役所や大企業の「古い体質」と全く同じものが、きっと潜んでいるに違いないということ。

古い体質を直したいのなら、まずは自分の中の古い体質を見つめて欲しい。そう言っておきたい。
とくに、これから裁判員になる方々に向かって、あれこれと説教したい面々には。

大阪府知事の謎の1時間2008年02月12日 20:51


橋下・大阪府知事が、NHKに大変ご立腹だそうだ。
2月8日午後7:30スタートのNHK大阪放送局の生番組を巡っての騒動だが、橋下府知事が30分遅刻してきたことについて、NHKの司会者が「遅刻」という言葉を2度使ったのがいけなかったとか、スタッフからのあいさつがなかったとか・・・。

橋下府知事側の言い分によると、もともとその日は東京での公務(挨拶まわり)があり、時間には間に合わないと返答していたのに、NHK側が出演は「公務だから」と生出演を強要し、東京での公務を切り上げてでも出演せよと迫ったそうだ。
これまでの報道をみる限り、概ねメディアは橋下府知事の言い分を支持している。2chあたりでも、橋下支持の発言が圧倒的に多い状況だ。
しかし、今日も関連ニュースの続報があるが、私には未だに肝心なところがわからない。府知事側の言い分には様々な疑いがある。

まず第一に、NHK側から「切り上げてでも」と橋下府知事が言われたという「公務」の存在のこと。
番組が予定されていた8日、確かに府知事は東京での公務に多忙だった。役所や議員会館を廻り、石原都知事との会談もあった。
橋本府知事は、こうした公務を終え、東京午後5時3分発の新幹線に乗って大阪に向かい、その足でNHK大阪放送局のスタジオに向かった。その結果、30分の遅刻となったわけだ。

ところが、とあるワイドショーを観ていたら、その日は公務の終了は「4時頃」と解説されていた。だとしたら、霞ヶ関あたりから東京駅まで、どう考えても30分以上かかるとは思えない。4時半発の新幹線に乗れる。それなら、公務を途中で切り上げる必要もなく、遅刻せずに済んだはず。
だから、なぜ4時半頃発の新幹線に乗れなかったのか、という疑問が残ってしまっている。「公務」というからには、そのスケジュールは公になっていないとおかしいのだが、そこに謎の1時間がある。

それと、この生番組出演がいつ決まり、いつ橋下府知事が断ったのかも考える必要がある。
NHK側は大阪府庁の広報担当者から出演の承諾を得ていたと主張している。おそらくは、当選前から、誰が知事になっても同じスケジュールが組まれていて、その中にNHK出演も含まれていたのだと思う。
いくら”傲慢”とされるNHKだって、最初から断られているのに無理に番組を組むとは思えないし、府庁側としても、公務と矛盾のない番組出演のスケジュールを組んでいたのではないだろうか。
だから、府知事本人が承知していたかはともかくとして、少なくとも、いったんは府庁側から承諾があったとみるのが常識的な判断だと思う。
そうだとすれば、いったん府庁側が出演を承諾した以上、その組織のトップである府知事が約束を果たすのが筋というもの。それはまさに公務そのものであって、NHK側が公務だから出演せよと迫ったのも無理はないことになる。

仮に、橋下府知事が、裏番組への配慮から、府庁の担当者によって当選前から勝手に決められていたNHK番組への出演を断り、あるいは裏番組が終了した時間に合わせて故意に遅刻したのなら、それはそれでいいと思う。タレント事務所と別の放送局との契約を守るのも一つの正義なのだから。
そうした事情をNHK側が全く理解せず、裏番組に関して契約不履行となってしまうような出演を強要したのであれば、確かにNHK側に問題があると思う。
だが、それなら、そのタレントとしての立場への無理解さを正面から攻撃すればいいだけのこと。司会者の他愛のない発言を真っ先に取り上げ、ことさら問題にするのは筋違いというものだ。

不思議なのは、私が疑問に思うこうした事実関係に関する報道が一切ないこと。
公務の終了時間を4時頃と解説していたワイドショーでも、その後の新幹線に乗るまでの府知事の行動については一切触れず、NHK側の対応に問題があって、府知事がキレるのも無理はないという論調で通していた。
しかし、公務の終了時間を4時頃と解説した以上は、なぜ4時半の新幹線に乗れなかったのかという点についての説明なしに、府知事の「公務があった」という言い分を正当なものと評価することはできないと思う。まして、NHK側に問題ありと決めつけ、非難することはできないはずだ。

で、その「権力のチェック」とかいう大事なお仕事は、どうなってしまったのか。
ちゃんと事実関係を踏まえて論評して欲しいものだ。権力者のご機嫌を損ねただけの、NHK司会者への個人攻撃などしてる場合じゃないと思うのだが。

「普通の人」と極悪人との差はどこにある?2008年01月12日 13:00

今週の1月8日、飲酒運転による死亡事故の刑事事件ついて、注目の判決が福岡地裁で言い渡された。
事故は、2006年に福岡の海の中道大橋で起きた。飲酒運転をしていた被告人の車が前を行く車に追突し、追突された車が橋の上から転落し、乗っていた幼い子ども3人が亡くなるという痛ましいものだった。
裁判では危険運転致死傷罪の成立が争われたが、判決では、同罪の適用が否定され、業務上過失致死傷罪と道路交通法違反のみが適用されることになった。

判決文自体を読んだわけではないが、これまで接した情報をみる限り、私はやはり、危険運転致死傷罪の適用は無理だったと思う。判決に対する世間の評価は厳しいものがあるけれど、むしろ、これだけ世間の注目を集め、同罪の適用が「期待」される中、冷静な判断を示した裁判官たちを私は評価したい。

だが、この判決に対するマスメディアによる非難の嵐は凄まじい。法の欠陥やら裁判官の非常識やらと果てしない。
確かに、幼い3人の命が失われた悲惨な事故であったし、逃げたうえに水を飲んで証拠隠滅を図った被告人の行動は非道だと思う。しかし、だからといって、危険運転致死傷罪が成立しないのはおかしいと、ただ騒ぐのがメディアの役割なのだろうか?

危険運転致死傷罪の構成要件は、「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で」車を運転し、人を死傷させたこと(刑法208条の2・1項)。当然に解釈にある程度の幅があることになるが、故意犯に匹敵する重い刑罰を課す以上は、それに相応する解釈による歯止めがなければ、過剰な刑事責任を国民に課すことになってしまう。
どうも、酒を飲めば「正常」でなくなるのは当然だから、危険運転致死傷罪が成立するのが当たり前と考えている人が多いようだが、平たく言えば、異常な運転しかできない状態であったことが必要だと考えた方がいい。今回の判決でも、単に酒を飲んで車を運転するだけでは十分ではないという判断基準が示されている。

とくに判決を罵倒している人たちには、よく考えてもらいたい。
危険運転致死罪の適用範囲を広げた瞬間から、「普通の人」がこの法律の標的になるのだから。
ちょっとだけなら良かろうと酒を飲んで車を運転してしまう、だらしない人が厳罰の対象になってしまう。確かに、だらしなく、人身事故を起こすような人はケシカラヌものではある。けれど、それは何十年も刑務所にぶちこむべき極悪人だろうか。私は、ギリギリ「普通の人」だと思う。むやみに刑務所に入れてはいけない。
だから、わざと人を死傷させたのと同等の、正常でない運転があったのでなければ、危険運転致死傷罪を適用してはいけないと思う。

100km/hで車を走らせ、よそ見していたのがそもそも正常ではないと言う人もいるけれど、本当にそう思っているのだろうか。自分の「常識」と照らし合わせて。
現場は「海の中道大橋」で、文字通り、海にかかる800mもの巨大な橋だ。この種の橋の上を、風景に目をやりながら100km/hで走る人は当たり前のようにいると思う。それが「普通の人」の行動だと思う。
仮に、こんな何百メートルも続く橋の上の直線道路であろうと、景色には目もくれず、制限速度以内で走ることしかしていない人が、被告人や判決を非難するならわかる。それだけ日頃から安全運転を心がけている立派な人の意見なのだとすれば、それはそれで一つの見識だと思う。だが、口汚く非難の言葉を吐いている人たちも含めて、ちゃんと制限速度を守れないのが「普通の人」というものではないのか。
正常でない運転というのは、住宅街の幅4mの道路や、人通りの多い市街地を100km/hで走るような危険行為のことだ。

それともう一つ重要なことがある。
被告人は現場から逃げて大量の水を飲み、事故から48分後になって呼気検査を受けている。その検査結果では呼気1リットルあたり0.25ミリグラムで、酒気帯び程度だったため、判決では「泥酔状態」ではなかったと認定された。
ただ、検査時までタイムラグがあったため、事故時にはどうだったのか、という疑問が残ることになり、この点がマスメディアによる非難の対象になっている。
しかし、そもそも水を飲んだくらいで、劇的に血中濃度が薄まるわけではなかろう。もし薄められるとすれば、アルコールだけでなく赤血球まで薄まって人は死んでしまう。水を飲んで証拠隠滅を図った行為自体は非道だけれど、その実際の効果は疑わしい。
問題なのは48分のタイムラグだが、血中濃度のピークは、酒を飲んだ直後ではなくて1時間~2時間後にやってくる。被告人がスナックを出て事故を起こすまで約8分間とされているから、被告人が最後に酒を口にしてからの経過時間はおよそ1時間程度だったことが推測できる。だから、スナックでの飲酒によるピークが検査時であった可能性がある。この逃走時間の経過で劇的に血中濃度が下がったと考えるわけにも行かない。

だいたい水を飲んで1時間くらい逃げ回ったところで、大した証拠隠滅の効果はないのである。むしろ、逃げたり水を飲んだ行為が悪質だと評価され、量刑が重くなるだけのこと。
だというのに、マスメディアの方々は、これを「逃げ得」だと言い立て、馬鹿げた逃走行為に意味があるかのように喧伝している。こんな喧伝をやってしまって、どれだけ世の中に害悪を及ぼすことか! むしろ、そのような非道が無意味で、全く自分のためにもならないことを、きちんと伝えるべきだったと思う。

さて、私は危険運転致死傷罪の適用はできなかったと考えるけれど、適用ありという考え方があってもおかしくはない。法の解釈に幅がある以上は、確かに議論の余地はあると思う。
しかし、今回のマスメディアの報道は、判決が述べた合理的で科学的な根拠を、きちんと国民に伝えてはいない。その難点をあげつらうばかりで、なぜそのような判決になったかをまるで説明しようとしない。これでは、国民の中での議論自体が成り立たなくなってしまう。裁判員制度が始まることを考えると、私にはこの状況が恐ろしくて仕方がない。
そもそも、口を開けば権力の暴走はケシカラヌと言うような人たちが、なぜに被告人に対する強烈な権力行使を奨励するのか? 真っ当なジャーナリストなら、むしろ法を曲げようとする検察側の主張に疑問をもつはずだと、私は思うのだが。

それで朝日新聞の社説だが、「これが危険運転致死傷罪の危険運転にあたらないというのは、普通の人の常識に反していないだろうか。・・・なにが危険運転にあたるのか。・・・国民の常識からかけはなれたものであってはならない。危険運転致死罪が来年始まる裁判員裁判の対象になることを考えれば、なおさらである。」と書いてあって、暗澹たる気持ちになってしまった。

上の方に書いたように、この法律は、適用範囲を緩めた瞬間から「普通の人」を標的にし始める。だらしないだけの「普通の人」を、何十年も刑務所送りにすることになる。かつてのソ連のような世の中にしたいなら、それもよかろう。だが、私はイヤだ。たぶん「普通の人」だって、イヤだと思う人はたくさんいるはずだ。
裁判員制度が始まろうとしている今だからこそ、「普通の人」たちに向かって、その危うさをきちんと伝え、考える材料を提供するのがジャーナリストの仕事ではないのだろうか。

もし、酒を飲んで車を運転するような奴は「普通の人」ではないとでも言うなら、こんな社説を書いた人に聞いてみたい。
あなたは、自分が急いでいるのに、前を走る車が制限速度の40km/hなんかで走っていて、「遅い」と舌打ちしたことはないのか、と。私はある。それが「普通の人」だと思う。
だが、死亡事故の直接の原因は、車のスピードにある。飲酒は間接的な原因でしかない。その意味では、車のスピードを上げる行為の方が、飲酒運転よりも明らかに、そしてはるかに危険だ。だとすれば、トロトロ走る前の車に向かって、もっとスピードを上げろと舌打ちするあなたこそが、「常識」からして極悪人なのではないか?

桃太郎 9.112007年09月12日 19:54


 先週、NHKの教育番組で、桃太郎の物語を扱った放送があった(おはなしのくに『ももたろう』の再放送)。物語の朗読にあわせ、絵本調の絵画の映像が流れる構成の番組で、朗読はフリップフラップの2人だった。
 まあ大袈裟に考えるほどのことではなのかも知れないが、この番組での桃太郎の物語には、ちょっとした味付けがしてあって、それが私には、かなり気になってしまった。それは、次のようなストーリーが加えられていたこと。何だかハリウッドのアクション映画みたいだった。

 幼い桃太郎は、おじいさんとおばあさんが鬼に痛めつけられるのを目の当たりにし、「生まれてはじめて『怒り(いかり)』を感じ」る。以来、鬼を懲らしめなければと、桃太郎は「トレーニング」を始める。そうして逞しく育った桃太郎は、犬猿雉を伴って鬼ヶ島に到達。鬼ヶ島の入り口には、真っ黒で大きな門があって、桃太郎の行く手を阻むのだった。

 桃太郎の物語の起源は古く、かなり古いだけに、人々の考え方の変化に伴って物語も変容し続けてきた。
 最も古い物語の筋では、桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返り、ちゃんと妊娠できるようになって桃太郎が生まれたことになっていたとか。実はこの物語、まさにエッチな桃色物語だったのである。
 そうした怪しげな出生の秘密をもつ桃太郎自身も、もともとは、ちょっとワルでエッチな兄貴として描かれていた。鬼ヶ島で略奪してきた金品でもって、遊女買いに出かけたりしていたのである。

 品行方正で硬派なイメージの桃太郎像が世に広まったのは、明治時代に教材として扱われるようになったことが大きく影響しているとか。こうして桃太郎の物語は、海の向こうの「鬼」とか鬼畜ナントカをやっつけるという、日本一の正義の物語へと変貌していったらしい。

 だから、そういった桃太郎の変貌に胡散臭さを読み取った芥川龍之介なんかは、この物語を皮肉った作品を書いたりしている。
 龍之介版の桃太郎では、鬼が桃太郎に向かって、自分たちがどんな無礼をはたらいたのか合点が行かぬので、どうか教えて欲しいと尋ねる場面が出てくる。桃太郎の答えは、日本一の自分が鬼ヶ島の成敗を志したからだ、というもの。全く中身がない。

 いや、むしろ、その程度の理由だけだった方が良かったのかも知れない。荒唐無稽であっても、いっこうに構わない。古来からの伝承なのだから。

 だが、先週のNHKの桃太郎には、きちんとした理由が丁寧に説明されていた。
 鬼はあちこちで財産を略奪していて、おじいさんとおばあさんもその犠牲となり、鬼に暴力をふるわれたという設定だった。鬼が里を荒らす、といった抽象的なお話ではなくて、桃太郎の身近なところで起きた悲劇が描かれている。
 そしてこの事件は、桃太郎に、生まれて初めて感じたという怒りの感情を与える。それが、鬼と戦うための「トレーニング」の動機となるという展開だった。

 報復のための暴力は、努力を重ね、歳月を重ねてでも実行されるべき正義なのである。そして報復への感情は、誰から教わらずとも、生まれながらにして感じるとることのできる、自然な正義の感情なのだ・・・
 と、NHKの番組が描いた桃太郎は、そう訴えかけているようでもある。テレビを観ている子どもたちに向かって。

 21世紀の私たちは、かつては空虚なものでしかなかった桃太郎の正義に、明快で確固たる根拠を与えようとしているのかも知れない。
 悪は懲らしめられるべしというその「自然な感情」の前で立ち止まり、理性と知恵を働かせない限り、世界に平和など訪れないと、私は思っているのだけれど・・・。