私も「言論は大丈夫か」と思ってしまったよ2009年05月02日 14:20

先日の4月26日の「サンデープロジェクト」というテレビ番組で、こんな問題が取り上げられていた。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/contents/backnumber/0310/

それは、2005年に日米犯罪人引渡条約に基づいて、アメリカに引き渡された日本人女性の悲劇についての問題提起。
「自国民の生命、自由を守るのが存在意義であるはずの政府。日本の司法は、いったい誰のため、何のために存在しているのか。徹底検証する。」という、この番組の説明によれば、経緯は概ね次のとおり。
この女性は、新たなビジネスを始めるためマンハッタンの事務所で活動をしていたところ、9.11テロによってその事務所が罹災した。その後、被災者向けの低利ローンの制度があることを知り、ローンの申請手続をとった。だが、役所からの連絡で、手続を依頼していた弁護士が勝手に100万ドルものローン申請をしていたことがわかり、即座に申請を取り下げた。
ところが、アメリカの検察がこれを罹災の事実のない虚偽申請だとして起訴し、この女性の身柄引き渡しを日本に求めるに至った。そして、「日本の法務省、検察庁、そして東京高裁は、アメリカ政府の言い分を検証しようとももせず」安易に引渡を認めてしまった。
アメリカに引き渡された女性は無実を訴えたが、現地の弁護士もこれを相手にせず、有罪答弁をして司法取引に応じるよう、彼女を説得するばかりだったという。そこで、その弁護士を解任したが、2人目も同様だったため解任した。
しかし、3人目の弁護士も同じことを言う。弁護士たちが言うには、外国人がテロに便乗して詐欺行為をしたという起訴事実については、アメリカ人の反感が強く、陪審で無罪を勝ち取るのは無理だとのこと。そのうち、勝手に高額申請をやっていた弁護士が、司法取引に応じて、その女性との共謀を認める供述をするに至った。結局、たとえ申請を取り下げていても、共謀していただけで共謀罪に問われるのだと説得され、その女性本人もあきらめざるを得なくなり、有罪答弁をして服役することになった。

検察側の唯一の証拠は、その女性が事業のために出入りしていたマンハッタンの事務所のビル管理人の証言。実際、番組のスタッフがその管理人に電話をかけて話を聞いていたが、確かに管理人は、その女性が9.11以前に事務所に出入りしていた事実はないと主張している。
しかし、「我々はアメリカで関係者の取材を試みた。すると、無実を訴える彼女の主張を裏付ける事実が次々と明らかとなった。」とのこと。
番組が入手した「一本のビデオテープ」には、9.11テロが起きて間もなく、その女性が事務所のビルに入って行く姿や、相談窓口で、ローン申請について説明を受ける彼女の姿が映っていた。
しかも、彼女の無実を示す決定的証拠があったという。それは、その女性自らが、申請を取り下げたときの記録。しかし、検察はこの文書には触れようとしなかった・・・。

なるほど、私も、制度のあり方として、日本側の引渡の手続に問題があって、とくに反論の機会が十分でないことについては同じ意見だ。
ただ、このストーリーによると、この女性は完全に無実で、アメリカの検察も3人の弁護士も、日本の法務省も高等裁判所も、彼女の無実を見抜けず、適当な証拠だけで刑務所送りにしてしまったアホということになるが、本当にそうだったのか・・・と、ひねくれ者の私なんかは思ってしまった。
証拠に直接触れたわけではないから、この女性が有罪なのか無実なのか、私には判断できない。ただし、彼女を有罪にしてしまった連中はケシカラヌと、非難できるような根拠が番組で示されたのかというと、ほとんど示されなかったと私は思う。少なくとも、この番組で提供された情報だけでは、この番組の主張には同意できない。
というわけで今回は、司法関係者の怠慢や事務所管理人の偽証に対し、この番組が下した「有罪」判定に対して、彼らの「冤罪」をここで訴えたいと思う。

まず、番組を観ていて、疑問に思った点がいくつかあった。
女性が9.11以前に、その事務所で活動していたのだとすれば、賃貸借契約書があるはずだが、それがない。仮にそれがなくても、取引先との連絡記録があったり、電話設置の記録あったり、電力会社との契約があったり、机を買ったときの店の記録があったり、引っ越しのための運送会社の記録があったり、何かしら痕跡があるはず。それが番組で示されなかったのはなぜなのか?
しかも、番組が入手したとかいう「一本のビデオテープ」は、9.11より後のもので、肝心の事務所内部の様子が写し出されていない。粉塵を被ったというビルに入って行く女性の姿と、ビルから出て来た女性が、取材陣に内部の報告をしている姿が映ってるだけ。つまり、ビルの中に本当に女性の事務所があって、彼女の所持品などがそこに存在したのかすらわからない。この映像だけで、ビル管理人がウソの証言をしたと決めつけることができるのだろうか?
これで真実が「次々と明らかとなった」のと言われても、首をかしげるほかはない。むしろ、取材の結果、無実を裏付ける証拠はあまり出てこなかったけれど、ビルの管理人に電話してみたり、担当弁護士にインタビューしてみたら、結局は有罪を裏付ける証言や意見だけが出て来てしまったというたというのが私の感想だった。

それで気になって、引渡がなされた2005年当時の新聞記事を調べてみると(信濃毎日2005/10/14)、どうも、引渡の理由となった容疑は3つほどあったようなのだ。確かに一つは、この取り下げられたローン申請に関するものだが、残りの2つは、援助団体と赤十字から小切手を詐取した容疑だった。
また、記事によれば、女性とともに、同じ容疑で無職の男性もアメリカに引き渡されている。しかし、この「無職の男性」についても、番組で取り上げられることはなかった。なぜ、番組ではこの重要人物についての説明がないのか? この「無職の男性」と、勝手に高額ローン申請をしたとされる弁護士が同一人物なのか否かもよくわからない。
いずれにせよ、この記事のとおりだとすれば、ローン申請を一つ取り下げようが、その一つが無実だろうが、ほかの2つについて有罪を示す証拠があれば、アメリカの検察は起訴したろうし、日本側も引渡を認めたろうし、アメリカの弁護士たちも司法取引を強く勧めたことだろう。
もちろん、その2つの容疑についても、いい加減な審理がされた可能性は否定できないけれど、番組がその点に全く触れなかったのはなぜ?

番組が描いたストーリーは、外国人によるテロ便乗犯罪に偏見をもつと思われるビル管理人の証言を唯一の証拠に、司法関係者たちは揃いも揃って、申請が取り下げられたという明白な事実を無視し、彼女の訴えに全く耳を貸さなかったというもの。だから日本の法務省や裁判所はデタラメだとか、アメリカの司法は9.11以降おかしくなったとか言うのだけれど、このケースをもとにしてそう言われても、何だかピンと来ない。
問題点を浮かび上がらせるために、単純でわかりやすいストーリーを視聴者に示すことも重要だろうとは思う。問題を解決するために、あいつらが悪いと金切り声を上げることも、ときには必要なのだろう。しかし、「あなたたち、大事なことを視聴者に隠してませんか?」というのが私の感想だ。
この種の話題で、最近、番組出演者が口にする常套句は「日本でも間もなく裁判員制度が始まりますから・・・」というものだが、いやいや、そういう今だからこそ、こういう番組づくりをしてはいけないのでは?
自分の主張に都合のよい証拠だけを集め、それに反する証拠や事情は全部切り捨ててしまい、アイツらが悪いと言い立てる。この番組がとった態度こそが、「えん罪の温床」なのでは?

この番組には、こんなタイトルが付いていた。
   特集 シリーズ 「言論は大丈夫か」17
   『 誰のための司法か 』 - 「日米条約」 と 「日本の司法」 -

ちなみに、その前週の放送(特集 シリーズ 「言論は大丈夫か」16)を紹介するHPには、なかなかいいことが書いてあった。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/contents/backnumber/0309/
「なぜ検察は証拠隠しを行うのか・・・?
そこには「被告を有罪にするための証拠しか出さない」、すなわち「最良証拠主義」が存在する
裁判員として参加する市民が、えん罪に加担させられないためには、どうすれば良いのか
えん罪の温床となる検察の証拠隠しを徹底追及する!」

微調整はできるが前が見えない??2009年05月17日 14:06

先週の金曜日(5/15)、2006年に福岡で起きた飲酒運転による死亡事故について、福岡高裁で判決があった。第1審では、危険運転致死傷罪の適用を否定したが、今回の判決では、その適用が認められ、何と懲役20年とか。
第1審判決のとき、このブログにも感想を書いたけれど、やはり私は、むやみに危険運転致死傷罪の適用をしてはいけないと思う。↓
http://ike.asablo.jp/blog/2008/01/12/2556999

それで、高裁で判断が覆った理由なのだが、新聞で読んで仰天してしまった。
第一審では、事故原因は被告人の脇見運転であったとして、飲酒によって「正常な運転」ができなかったものではないと認定されていた。この点を否定した高裁の判断がどうも合点が行かない。

これまで報道によると、判決骨子は次のようなもの。
道路にはこう配があったので、直進するにはハンドルの微修正が必要で、前を向いてないと運転は困難。だから、長時間の脇見とした1審判決は誤り。
前の被害者の車を間近に迫るまで認識できない状態にあったから、アルコールの影響で正常な運転が困難な状態。だから危険運転致死傷罪が成立する。

道路に勾配があっても、ハンドルの微調整ができるので時速100キロで走れる。でも、前はよく見えない酔っぱらいドライバー・・・って何それ??。

前方車両とぶつかる危険があるとすれば、それは自分の死の危険でもある。間近に迫るまで認識できない状態、つまりは自分の死の危険さえも認識できないというのは、かなりの酩酊状態。確かに、その通りだとすれば、まさに正常ではない状態だと言える。
しかし、そこまで酔ってしまった人が、時速100キロというスピードの中、的確なハンドルの微調整ができるのだろうか。普通、微調整ができずに蛇行運転になってしまうはず。
蛇行しながら100キロのスピードを維持するというのも、これまた大変な話で、相当なドライビングテクニックを要する。だから、それができたとしたら、正常でないとは言えないことになってしまう。

報道されている情報が少ないため、それが理由の全てだったのかわからない面もあるが、微調整ができたとしながら正常ではなかったと言うこの理屈は、滅茶苦茶だと思う。
それでも、この滅茶苦茶ぶりを批判する声はほとんど聞こえて来ない。むしろ、高裁判決への賞賛の声が多い。

だから私は恐ろしい。言論は大丈夫か?

「市民」から人へ。人から市民へ。2009年05月21日 02:24

今日からいよいよ裁判員制度が実施される。せっかくなので、ここで一発言っておきたいと思う。
この制度については、「市民」が司法に参加する制度という言い方があるけれど、もうその言い方はやめにして、ちゃんと現実に即した議論を始めようじゃないですか、と。

そもそも私たちは、「市民」という言葉を、特別な意味を込めて使っていることが多い。善良であり、常識を備えており、公平な判断ができ、庶民的であって、毅然として権力を批判できる・・・といった肯定的な意味を込めている。
だから、裁判員制度についての議論が始まったとき、これに反対したのは一部の専門家ぐらいのものだった。だいたい、「市民」が司法に参加するのだから、良い制度だとしか言いようがなかったわけである。
今になって振り返ってみると、このところ議論されている問題点をいち早く的確に指摘していたのは当時の反対派だったのだが、「市民」の敵である法務省をはじめとする反対派の意見は、あまり顧みられることはなかった。

私は、裁判員制度が始まっても、事実認定の精度は、良くもならないし悪くもならないと思っている。
おそらく、冤罪がなくなって格段に良くなることもないし、逆に、冤罪が増えることもないだろう。素人でも6人集まれば、裁判官並みの精度は保たれるだろうし、一方で、裁判員も同じ人間である以上、裁判官と同じ程度には間違えるはず。
しかし、「市民」が参加するという文脈で議論が始まると、そういう冷めた予想は全く相手にされなくなる。「非市民」である裁判官は、常識がなく、不公平な判断をして間違えたかも知れないが、「市民」は全く間違えないか、あまり間違えないという前提で議論が進んでしまう。なぜなら、「市民」であれば常識に基づいて公平な判断を下すはずだから・・・と。
昨年、今さらのように延期した方がよいとか言い出した弁護士会も、もともとは推進派の急先鋒だった。
裁判官が相手では、被告人の言い分をまともに聞いてくれないし、弁護側が証人申請しても採用してくれない。けれど、「市民」が参加してくれれば、被告人の置かれてきた境遇とか、やりきれない気持ちとか、きっと庶民目線で理解してくれるに違いないという、楽観的な思惑があったように思う。

ところが、制度導入が決まって以来、こういった「市民」像を念頭に置いて議論を進めてきた推進派が(とくに弁護士会あたりが)、おそらくは一番驚いたであろう現象が起きてしまった。
「市民」は弱い者の味方であるから、権力者である裁判官とは違って弱者の気持ちを理解できるという前提がある。推進派が期待したのは、国家権力によって身柄を拘束され、弱い立場に立つことになった被告人への理解だったはずだ。しかし、世間の常識からすれば、被告人は悪い弱者でしかない。本当の弱者は被害者なのであって、結局、被害者側の希望を叶えてあげるのが「市民感覚」と理解されてしまった。
それに、人を死なせておきながら言い訳をするのは反省していない証拠であり、まして否認したり黙秘して真相を語らないのは卑怯だ、と評価するのが「市民の常識」である。
この「市民感覚」と「市民の常識」に沿ったかたちで、凄まじい勢いで厳罰化が進んだのがこの数年間の動きだった。
裁判員制度の下で「市民」が判断すれば、無期懲役は死刑になったはずといった論評が巻き起こり、今や日本は、世界に希な死刑大国になり、諸外国から注意されるところまで行ってしまった。
それだけではなく、飲酒運転で死亡事故を起こしたら、7年程度の懲役刑とは非常識であり、25年でも足りないというのが「市民の常識」になった。例えば、故意に人を傷つけ、その相手がたまたま死んでしまったとすると傷害致死罪になるが、その場合の量刑の相場は、2~3年の懲役である。5年を超えることはほとんどない。つまり、過ちで人を死なせたに過ぎない人に対する刑罰の相場が、一気に、意図的に人を傷つけ、そのはずみで人を死なせた乱暴者に対する刑罰の何倍にもなったわけである(いや「市民感覚」からすれば、傷害致死罪の量刑が軽すぎるということになるのか)。
最近の日本が死刑大国になってしまったのは、裁判員制度のせいだけではないだろう。けれど、ここ数年、ほとんどのマスメディアが「もっと死刑を」「もっと厳罰を」と金切り声を上げ、この制度にかこつけた厳罰論を主張し続けてきたのは事実だ。
厳罰化と必罰化とは紙一重でしかない。厳罰化は必罰化を生み、そして、必罰化は冤罪を生む。
いまだに「市民」の文脈で議論したがる人は、「市民が無罪を主張しているのに、裁判官が死刑の結論を市民に押しつける」ような事態を心配しているようだが、ここでメディアが表現する「市民感覚」がその通りだとすると、その逆の事態を心配しなければならなくなったわけである。
マスメディアが「厳罰化の流れ」と、まるで他人事のように表現するこの現象は、私には恐怖そのものだった。
これは「流れ」だから、誰にも責任がなく、誰も反省しないということなのだろう。そんな流れに乗せられて、生きた人間が次々と死刑台に送られる。そんな恐るべき国になってしまった。

しかし、実際に制度のスタートが秒読み段階に入ると、多少はこの恐怖感も和らぐようになった。
なぜかというと、普通の人を念頭に置いた、現実的な議論が復活するようになったからである。
世論調査をやってみると、参加したくないという人が8割ほどいることがわかってきた。司法を民主化するために積極的に参加したいと考えるのが「市民」のはずなのだが、これはなんとも「市民」らしくない答えである。
次いで、自分が死刑の判断をするのは辛いという意見が、かなり広がりをみせるようになってきた。ちょっと前までは、殺人者に無期懲役とはとんでもない話で、死刑を求めるのが「市民感覚」とされていたはずである。「市民」なら、これまでの判例にとらわれた頭の硬い裁判官の主張を跳ね返し、堂々と死刑を主張し、正義を実現するはずだった。正義の味方たる「市民」にしては、なんとも頼りない感じになってきてしまったわけである。
新聞の社説などを注意深く読んでみると、「市民」という言葉と「人」という言葉が使い分けられていることがわかる。参加したくない人は「人」であり、興味すらない人は当然「人」として表現される。一方、これで司法を変えられるとか立派な意見を述べる人は「市民」とされる。しかし、世論調査の結果は、「市民」よりもただの「人」の方が圧倒的に多いことを示している。
こうした多数派の傾向を認識したマスメディアは、かつては一切無視するか否定してきた制度の問題点の発掘に励むようになった。おかげで、現実的な論点が日の目を見るようになり、多少はまともな議論が聞けるようになってきたというわけである。
結局、「市民」という言葉で議論している間には見えなかった現実が、ようやく皆に見えるようになったということではないだろうか。
私たちは「市民」ではなく、ただの普通の人でしかなかったのである。裁判官に向かって、お前たちは「市民的」でないから選手交代だと、外野席から野次を飛ばすのは簡単だけれど、実は今、私たちが立とうとしていたのは、玉が飛んでくるグラウンドの真直中だったのだ。

だから本当は、普通の人が参加するという現実的で具体的な前提の上で制度の問題点を考え、あらかじめ制度への理解を広めておくことが必要だったのだと思う。
例えば、こんな問題を皆で真剣に考える必要があったと私は思っている。もしかすると真犯人かも知れないが、証拠は十分とは言えないとき、あなたならどうするか。
正解は無罪であり、金賞がもらえる模範解答は「裁判官が有罪と言っても無罪を主張する」ということになるが、これが実は、死刑判決を出すより難しい。誰がみても無実とわかるような事件は、そもそも起訴されない。それなりに証拠が揃っているから起訴されるのだから。
そのため、無罪でよいと思っても、もしかすると真犯人かも知れないという気持ちが必ず残るはず。世間は死刑を期待しているし、もし無罪という判断が間違っていたら被害者に申し訳ない。かといって、もし無実の人を死刑にしてしまったら・・・さてどうする?
しかし、「市民」なら的確に真実を見極めることができるという前提の下では、こういう問題はそもそも起こらないことになっている。誰もが正解できる模範解答は用意されているものの、その結論を出す過程で生じる悩みを共有し、覚悟を決めるための議論が、ほとんどなされてこなかった。

とはいえ、前にも言ったように、問題は多々あっても、裁判の中身が悪くなることはないと思う。
私は当初、どちらかというと反対だった。けれど、半年前くらいから世間が騒がしくなり、問題ありの声が大きくなるにつれ、ひねくれ者の私は、大賛成に転じている。
実は、この制度には、あまり議論されていなかったところに、なかなか味のある仕掛けが(こっそりと)してある。制度についての理解が進むにつれて、私もあまり心配しなくてもよいと思うようになった。
それに、このところの現実的な議論は、参加を嫌がる普通の人に対して、責任ある市民としての覚悟を促すものになってきている。これなら、やった方がいいし、ちゃんと続くようにして欲しい。
一つ裁判官に注文を付けるとすれば、難しい事件にあたってしまったなら、「証拠が十分でないと思うなら、勇気をもって無罪と言ってください」と、悩める裁判員を励まして欲しいと思う。同じ悩みをもつ仲間として裁判員を迎え、経験豊富なプロの立場からアドバイスして欲しいのである。
そしておそらくは、その悩みを裁判官とともに乗り越え、覚悟をもって結論を出した裁判員だけが、まさに「 」でくくる必要のない市民になれるのだと私は思う。

私は今こう思っている。
この制度は、「市民」が参加するからよいのではない。人を、本物の市民にするからよい制度なのだ。

スナフキンと一緒なら美味しいかも2009年05月28日 21:26

 
久しぶりに、新作パスタ。

今シーズンは、ディルが勝手に生えて茂り出したので、いろいろ使い途を考えてみたものの、新しい発想が出てこない。
ここはもう、あまり頭をひねらず、普通につくってみようということになり、定番のスモークサーモンとディル、バルサミコとオリーブオイルを混ぜ混ぜしたのをトッピング。
下地は、セージ、ローズマリー(こいつらも勝手に生えている)の香りをつけたオイルで火を通したジャガイモの千切り。
何となく、ヨーロッパの北方面に向かって行けば何とかなるだろうという、完全に行き当たりばったりの旅のような料理である。

出来映えは、「ストックホルムにあるイタリアンレストランのランチ」(勝手な想像によるイメージ。ただし、ボリュームは半分)。
軽くて、それなりに美味しいんだけど、何か足りない。でも、何が足りないのかわからない・・・。

やはり、南を目指すべきでした。
次はシチリアを目指します(文字通り、行っちゃうかも)。

白川郷の田植え機2009年05月31日 19:03


梅雨入り前の5月のうちに、せめて一度はバイクツーリングに行きたいと思っていたものの、なかなか時間がとれず、もたもたしてるうちに月末になってしまった。
ここはもう最後のチャンスだと、思い切って昨日、松本をバイクで出発し、昨夜は高山で宿泊。

予想していたとおり、昨日は野麦峠でどしゃ降りの雨に遭ってしまった。今朝も雨は止まず、予報でも午後まで雨とのこと。
こんなことなら梅雨入り後でも同じだった、と後悔しきりであった。
ま、悔やんでいても仕方がないので、小雨の中、白川郷を目指した。

その白川郷(荻町集落)は、あまりにも世界遺産であった。
合掌づくりの民家は、土産物店か、飲食店か、民宿のいずれかで、村中に観光客と車があふれていた。

そんな中、一際注目を集めていたのが、淡々と田植え機を操っていたお兄さん。
そうね、こういうのが見たかったりするのよね。私ら勝ってにやって来る観光客は。

午後は天気も回復して、快適なツーリングができた。
次回は、もし天気がよければ、五箇山あたりを荒らしに行こうと思った、そんな一日。