ある歴史学者の訃報2006年09月13日 17:54


私がバーリの街をぶらついている頃、歴史学者の阿部謹也氏が亡くなっていた。
9月4日のことだった。訃報は9月10日の新聞記事で知った。

記事には「社会史・中世史ブームの中心人物」との紹介文があった。私もそんなブームに影響を受け、中世ヨーロッパの歴史に関心をもつようになった一人である。私のホームページには、自分が「中世史マニア」であると書いているけれど、そのマニア化のきっかけをつくってくれたのが阿部氏だった。
王侯貴族の支配の変遷ではなく、民衆の日常生活や風俗、そしてモノの考え方の歴史に光をあて、歴史学の新しい研究分野を素人にもわかりやすく描いてくれた阿部氏の著作はすばらしいものだった。

初めて阿部氏の著作に出会ったのは、大学の卒論をちょうど書き終えた時期だった。
これは明治以来百年以上にわたって日本人が悶々としてきた問題だが、どうして日本では個が大事にされないのかという問題を考えていた時期だった。卒論のテーマは「子どもの人権」を扱ったもので、その頃流行のテーマでもあった。まあとりあえず、様々な問題事例を集め、裁判例も集め、それなりに良いの悪いのと論評してみたわけだが、不完全燃焼に終わった。
なぜ人権が守られないのか、なぜ私たちは他人の権利をきちんと理解することができないのか、という根本的な問いに対する答えは全くみつからなかったからだ。

今思うと不思議なのだが、それなりにいろんな本は読んでいたはずなのに、なぜかそっち方面には疎かった。卒業間際になって、ようやく『子どもの誕生』を書いたフィリップ・アリエスの社会史のことを知るようになり、そしてニッポンの社会史の代表選手とも言うべき阿部氏に辿り着いたわけである。

阿部氏は、やがて「世間論」という独特の日本論を展開されるようになる。阿部氏によれば、日本には西欧で言うところの「個人」や、個人によってはじめて成立する「社会」は存在せず、あるのは「世間」なのだという。そのうえで、自分自身をとりまく「世間」のことはさておき、あたかも自分が「個人」であるかのような錯覚のもとで、「社会」についてあれこれ評論しても意味がないことを厳しく指摘された。
私が阿部氏が描く中世ヨーロッパに惹かれたのは、そうした問題意識が歴史の記述にもにじみ出ていたからだと思う。なぜ日本では「個」が大事にされないのか、どうやって西欧は中世を経て、「個人」あるいは「近代的市民」を誕生させていったのか。問題を解く鍵は中世ヨーロッパにありそうな気がした。20代のころ、通勤電車の中で、もっとも熱心に読んでいたのが阿部氏を中心とする中世ヨーロッパに関する書物だった。

阿部氏が90年頃から積極的に「世間論」を展開しはじめられたころ、私はようやく"本題"に入ってくれたと喜んだものだった。
もっとも、最近の私は阿部氏の「世間論」とはかなり違う考え方に傾むこうとしいている。たぶんドイツあたりに通うのをやめて、ヨーロッパの南端に出かけるようになったからだと思う。
このところ、法をすり抜けるアクロバットやどこかの国よりひどい政治腐敗を得意とするかの国のあり様を目の当たりにしているせいか、ドイツやフランスを想定した「ヨーロッパ」とは、全く異質のヨーロッパというものをみながら考えるようになっている。
その意味では、ただ阿部氏の著作に傾倒するのではなくて、批判的に読めるようになってきたと思っている。ちょうどそんな自覚が生まれてきた時期に、阿部氏は亡くなってしまわれた。もう少し長生きされて、もう少し先のことまで教えてもらいたかった。

ともあれ、読者の一人として、阿部氏のご冥福をお祈りしたい。

コメント

_ aglianico ― 2006年09月13日 20:05

私は今、『安土往還記』を読んでいます。
語り手の、
「けがれなさというべきもののゆえに蒙る単純な傷」に対する感情を傍観し、
「二股掛けを悪いと感じつつもあえてそれをしている」津田の行動を分析する思考に深く共感しつつ、先に進んでいます。

阿部氏の著書も、何か読んでみたいと思います。文庫か新書で、ikeさんのオススメがあったら教えてください。

_ ike ― 2006年09月14日 15:17

読みやすいと思うのは、『中世の窓から』(朝日新聞社)と『中世の星の下で』(ちくま文庫)ですが、前者はハードカバー。後者は品切れになっているようです。
新刊で入手できる文庫・新書となると、『ハーメルンの笛吹男』(ちくま文庫)、『刑吏の社会史』(中公新書)の2冊くらいです。どちらも代表作ですが、テーマが限定されているので、そのテーマに興味がもてないとつらいかも。

_ 駄菓子 ― 2006年09月18日 03:52

すいません、横レス+遅レスですが。
以前、『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房)を読みました。
中学生向けの試験問題をつくっていた(そんな仕事もしていました)ときに出会った本ですが、目からウロコが落ちました。
中学・高校のときに読んでおけばだいぶ歴史観が変わったことでしょう。
内容は、網野善彦氏にも通じるところががあるかと。
わかりやすく書かれていて、もちろん一般の人にもお勧めと思います。

_ ike ― 2006年09月18日 11:35

駄菓子さん、こんにちは。

『自分のなかに歴史をよむ』は私も持ってます。
ご自身と歴史学との関わりを書かれたものですが、阿部史学のエッセンスがわかりやすく書かれてますね。
確かに、十代のうちにこんな本が読めていたらと思います。
あわせて、同じちくまプリマーブックスの『日本の歴史を読み直す』(網野善彦著)もどうぞ、といったところでしょうか。

_ aglianico ― 2006年09月18日 23:38

ikeさん、駄菓子さん、情報どうもありがとうございます。

『安土往還記』が読み終わるまでには、まずはどれから読むか選んでみようと思います。

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